「民青」としての活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 03:13 UTC 版)
学生時代は左翼に傾倒していた。小学校6年のときに姉からもらった『世界大百科事典』(平凡社)をノートに写して勉強していたが「その百科事典の近現代史関係項目を執筆していたのは、遠山茂樹という歴史学者をリーダー格とする『講座派』といわれる共産党系グループの学者たちだったんです」「中学二年の時に姉が『お前はそういうことに関心があるようだから』と引き合わせてくれた高校の日本史の先生がやはり共産党の方で、その先生に大きな影響を受けました」と、左翼になったきっかけを語っている。 1962年、当時ソビエト教育学の拠点 だった北海道大学教育学部に入学すると、共産党傘下の民青系に属し「労働問題研究会」でソ連共産党中央委員会編の『ソ連邦共産党史』を読んだりしたという。2年生だった1963年に共産党に入党した。 妻は、北海道教育大学時代の学長で共産党員の教育学者舩山謙次の娘。舩山の妻、舩山しんは新日本婦人の会札幌協議会代表を務めるなど共産党系の運動で活躍した。舩山謙次の兄、舩山信一はマルクス主義の学者で、治安維持法違反で検挙されたことがある。 舩山信一 舩山謙次 舩山しん 藤岡信勝 妻
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