「民藝」の誕生と美術館構想
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「日本民藝館」の記事における「「民藝」の誕生と美術館構想」の解説
1923年の関東大震災の大被害を契機として京都に居を移した柳は、実作者である濱田庄司、河井寛次郎らと親交を深める。柳は日本各地に個性的な仏像を残した江戸時代の遊行僧・木喰の「再発見」者としても知られ[要出典]、1924年(大正13年)以来、木喰の事績を求めて佐渡をはじめ日本各地に調査旅行をしている。この調査旅行や濱田に紹介されたイギリスのスリップウェア、京都の朝市での「下手物」の収集を通して、民間で使用されている日常品への関心を深めていき、1925年の末ごろに柳や濱田、河井は「民藝」ということばを造語し、使用し始める。1926年には、柳、濱田、河井と陶芸家富本憲吉の4人の連名で「日本民藝美術館設立趣意書」を発表し、このとき民藝品のための美術館施設の設立計画が始動した。 柳は収集した工芸品を私有せず広く一般に公開したいと考えており、1920年代後半には帝室博物館(現在の東京国立博物館)に収集品の寄贈を提案したが、寄贈は博物館側から拒否された。このことにより、「官」に頼らずに自ら美術館を設立することを目指すようになった。さらに、1929年にはスウェーデンを訪れ、現地の北方民族博物館やスカンセン(野外博物館)から美術館の構想に大きな影響を受けた。 1931年4月、柳は浜松市の高林兵衛邸内に日本民藝美術館を開館する。1933年5月には閉館するが、日本民藝館の準備となった。さらに、1934年には民藝運動の活動母体として日本民藝協会を発足させる。
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