ジョージアの大統領
![]() 大統領 საქართველოს პრეზიდენტი | |
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![]() 大統領旗 | |
庁舎 | アブラバリ邸(1991-2018) オルベリアーニ宮殿(2019-) |
任命 | 直接選挙(1991-2018) 選挙人団による間接選挙(2024-) |
任期 | 6年[注釈 1] (3選禁止) |
根拠法令 | サカルトヴェロ憲法 |
初代就任 | ズヴィアド・ガムサフルディア |
創設 | 1991年4月14日 |
職務代行者 | 議会議長 (シャルバ・パプアシュヴィリ) |
俸給 | 月額 13,000 GEL[1] |
ウェブサイト | Official website |
ジョージアの大統領(ジョージアのだいとうりょう、グルジア語: საქართველოს პრეზიდენტი、サカルトヴェロス・プレジデンティ、英: President of Georgia)は、コーカサスに所在するジョージアの大統領。
同国の国家元首でジョージア国軍の最高司令官[2]。2010年に行われた憲法改正により、ジョージアは大統領制から議院内閣制へ移行したため、大統領権限は従来よりも大幅に縮小され[2]、ほとんど実権を持たない象徴的な存在となった。
資格
サカルトヴェロ憲法第25条2項には、参政権のある40歳以上でジョージアに最低でも15年居住しているジョージア国民が、大統領になる資格を与えられると規定されている[3]。また同憲法第50条2項と第51条4項にて、重国籍者の被選挙権を否定しており (つまり、ジョージア国籍と他の国の国籍など複数の国籍を所持する者はジョージアの大統領になることはできない)[4]、またジョージア大統領は如何なる政党にも所属してはならないと明記されている[5]。
大統領の地位と権限
2010年10月15日に改正されたジョージア憲法第69条の規定によれば、ジョージアの大統領は依然としてジョージアの国家元首、軍の最高司令官、また、対外的な国家の代表者としての地位にある[6]。さらに、ジョージア国民の直接選挙によって選ばれる点でも以前と同じである[6]。ただし、内政や外交について直接に指揮ないし行使する権限の多くは廃止され、あるいは、内閣もしくは内閣を主導する首相に移管された。なお、改正憲法による変更点の骨子は以下の通り[6]。
- (改正憲法第67条)大統領の議会への法案提出権の廃止。これにより、法案提出権を有するのは、内閣、国会議員、議会内会派、議会の委員会、アブハジアおよびアジャリア両自治共和国の政府、3万人以上の有権者団体のみとなった。
- (同第68条)大統領の議会法案拒否権に対する議会側の再可決を行う際の基準の緩和。従来は、議員定数(150名)の5分の3以上の賛成が必要とされたが、現状では議員定数の過半数の賛成による再可決が可能となった[注釈 2]。
- (同第73条第1項)大統領の有する内閣の解職権限と、内閣から議会に提出される予算案の承認権限の廃止。また、外国との交渉、条約の締結、大使の任免、外国の大使の接受を大統領が行う場合、内閣の承認が必要となった。
- (同73条第3項)内閣その他の行政機関の活動が憲法、法律、大統領令その他規則に違反した場合に停止を命じる従来の大統領権限の廃止。
- (同78条第4項)大統領が政府の会議を招集・主宰する権限、および会議の決定を大統領令として公布する権限の廃止。大統領は閣議で特定の議題について討論を行うよう内閣に要請する権限と討論に参加する権限のみを有する。
大統領の一覧
脚注
注釈
出典
- ^ “Georgia increases the president's salary”. Democracy & Freedom Watch (11 December 2013). 2023年11月3日閲覧。
- ^ a b 『世界年鑑2016』(2016)p.483
- ^ [[]][[|第条]]、12月29日、
- ^ [[]][[|第条]]、12月29日、
- ^ [[]][[|第条]]、12月29日、
- ^ a b c 小泉悠「グルジア 憲法改正と議院内閣制への移行」 『外国の立法』 No.253-2、国立国会図書館、2012年11月
参考文献
- 一般社団法人共同通信社『世界年鑑2016』共同通信社、2016年3月。ISBN 978-4-7641-0686-4。
関連項目
グルジア大統領
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/08 06:30 UTC 版)
「エドゥアルド・シェワルナゼ」の記事における「グルジア大統領」の解説
ソ連崩壊後、グルジアのズヴィアド・ガムサフルディア大統領は民族主義と強権政治を強め、これにより民族紛争と大量難民を生み出した。1992年1月の反ガムサフルディア派によるクーデターでガムサフルディアはロシアのチェチェン共和国へ亡命した。混乱を極めるグルジアの国内情勢を立て直すために、かつてソ連外相としてペレストロイカを推進し、国際的に抜群の知名度を誇るシェワルナゼが擁立された。 1992年3月、シェワルナゼは、グルジア国家評議会議長に就任し、グルジアの最高指導者となる。1992年10月には、最高会議議長に当選。1995年8月新憲法が採択され、11月大統領に選出された。1999年、グルジア大統領の立場で来日。2000年4月には大統領に再選された。シェワルナゼ政権によって、グルジアの経済及び社会情勢は安定を見せ、市場経済への転換も軌道に乗ったが、アブハジア紛争に伴う難民問題やロシアとの関係など難問を抱え、さらに1998年に彼の公用車だったメルセデス・ベンツ・W140をターゲットにしたシェワルナゼ暗殺未遂事件が数度発生したことを契機に、市場経済へのプロセスが停滞し始め、それに伴い汚職の蔓延や電力やガスなどの供給不安、失業などが拡大していった。
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