クヌートの死後
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1035年にクヌートが死ぬと北海帝国は間もなく崩壊したが、実際にはノルウェーにおいてはすでに崩壊しつつあった。1033年の冬までにスヴェインとエルギフは人望を失っており、トロンハイムを離れることを余儀なくされた。1034年、スティクレスタドの戦いにてオーラヴを撃退し殺害した軍の指揮官は、王の忠実な支持者の1人と協力して幼い息子マグヌス1世をガルダリキ(英語版)から支配下に戻し、クヌートが死ぬ数週間前の1035年秋には、スヴェインとエルギフは国外へ脱しデンマークへ向かわねばならなかった。スヴェインはその後間もなく死亡した。 デンマークではハーデクヌーズがすでに王として統治していたが、ノルウェーのマグナスによる復讐を遂げるための侵攻の脅威があったため、彼は3年間自国から出れなかった。その間イングランド貴族らは、ハーデクヌーズ派とその腹違いの兄ハロルド1世派に分裂してハロルドを摂政にすることでの妥協を決意した。1037年末までにエルギフは要人らにハロルドへの忠誠を誓うよう説得し、彼はイングランド王ハロルド1世として囲われた。ハーデクヌーズの母エマ女王はフランドルへの避難を余儀なくされていた。 ハーデクヌーズは、彼の異母兄からイングランドを奪取するための侵攻艦隊を準備したが、それが使用される前の1040年にハロルドは死亡した。その後ハーデクヌーズはデンマークと再統合してイングランド王となったが、この統合は王としての悪印象を広くもたらした。アングロ・サクソン年代記は彼について、在位中は国王らしいことは一切しなかったと記している。1042年6月、クヌートの宮廷にいたデンマーク貴族の1人、トヴィ(Tovi the Proud)の結婚披露宴にて、ハーデクヌーズは「酒を飲んで立ったまま」突然死した。一見、彼の死は北海帝国の終焉をもたらしたように見えるが、ノルウェー王となっていたマグヌスはハーデクヌーズと結んだ1040年の合意を利用してデンマークを掌握し、イングランドへ侵攻して諸王国と帝国を再統一する計画を立てていた。デンマークにおける権力強化において、彼はヨムスヴァイキングの中心地を破壊した直後に始まった、リュルスコフ・ヒースの戦い(英語版)にてヴェンド人の侵攻を防いだ。それにより、スヴェン1世やクヌート大王の支配権を強めた重要な政治的および軍事的要素の1つを破壊したため、これは事実上自らの首を絞める行為であった可能性もある。マグヌスは1046年にスヴェン2世(英語版)をデンマークから追放したが、1047年にはスヴェン2世とトヴィ伯爵がデンマークから逆にマグヌスを追い出したことを、ブレーメンのアダムが簡潔に言及している。これについては、1047年にマグヌスとの戦闘を支援するために50隻の船の増援をスヴェン2世がイングランドに依頼したと記述している、同時代のアングロ・サクソン年代記によって確認されている。スヴェン2世の母親はスヴェン1世の娘であることから、彼はスコーネにてデンマーク王に選ばれ、エストリズセン朝を開いた。スヴェン2世はマグヌスをデンマークから追放して大虐殺によってデンマーク入りし、デーン人らは多額の金銭を支払い国王として認めた。マグヌスは同じ1047年に死亡した。 同君連合としての北海帝国はヨーロッパ史において短期間に終わったが、デーン人はイングランドにおいて、東部のデーンロウと呼ばれる地域に対し慣習法や方言などの面で後世に及ぶ大きな影響を残した。イングランド語(英語)にも、デーン人の言語である古ノルド語の語彙が多数残ったといわれる。
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