クヌートの統治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/02 00:48 UTC 版)
「ディング」および「賢人会議」も参照 1017年初頭、おそらく通常の手段ではなく征服権によって王となったため、クヌートはイングランドをスカンディナヴィアのモデルにて4つの国に分割した。ウェセックスはクヌートが直接統治し、協力者であったのっぽのトルケルはイースト・アングリア伯爵(英語版)に、エイリーク・ハーコナルソンはクヌートがすでに与えていたノーサンブリア伯爵(英語版)の地位を保持し、エアドリック・ストレオナ(英語版)はマーシア伯爵(英語版)となった。しかし、ストレオナについては1年以内に処刑された。1018年、クヌートはウェセックスにて少なくとも2つの伯爵領を復活させ、オックスフォードでの会合において彼の部下やイングランドの代表者らはエドガー王の法律に基づいてクヌートが統治することに同意した。 アングロ・サクソン史家のフランク・ステントン(英語版)は、アングロ・サクソン年代記では、国外への頻繁な移動に言及していたことを除くとクヌートの治世に関してはあまり語られておらず、クヌートがイングランドを強く支配していたことを示していると指摘する。クヌートの不在中、トルケルはおそらく彼の摂政を務めていたとされるが、1021年に失脚し追放された。1023年のデンマークでの調停の際には、里子に出すため息子たちを交換し、トルケルはデンマークにおけるクヌートの摂政となったが、これはトルケルが武力にて彼らに勝ったことを示唆している。 しかし、スコットランドにてイングランドの勢力を強化することによりノーサンブリア伯爵の位を守ることは、クヌートのもうひとりの伯爵、ノーサンブリア伯シワード(英語版)に託された。1055年の彼の死亡時点には、彼は王ではなく、前世紀初頭にストラスクライド王国(英語版)が併合した全領土の大君主であった。 デーン人がクヌートの不在について不平を述べることには、イングランド人よりも多くの理由があった。彼は主にイングランドを支配しており、デンマークには摂政を置いていた。彼はイングランドでの主任顧問としてのトルケルに代わってイングランド人のゴドウィンを置き、和解してから3年以内にデンマークの摂政をクヌートの妹の夫であるウルフに交代させた。ウルフはクヌートとエマとの間の息子ハーデクヌーズの後見人となった。しかしウルフは忠誠心を欠いており、まずスウェーデンやノルウェーの王らとともにクヌートに対する陰謀を企て、貴族らにハーデクヌーズ(事実上ウルフ)への忠誠を誓わせ権力闘争を仕掛けた。クヌートは1026年のクリスマスにデンマークに戻ってウルフを殺すよう一族に命じ、彼はロスキレのトリニティ教会にて殺された。彼はその死を迎えるまでに、イングランド人に助言したスカンディナヴィア人の派閥を完全に置き換えた。 クヌートはノルウェーにて越年し、Jarl Erikの息子ハーコン・エリクソン(英語版)(彼はスヴェン王にも同じように仕えていた)を摂政に据えたが、エリクソンは翌年の冬に溺死した。クヌートはその後任として、エルギフとの間にもうけた2人息子のうちの次男スヴェイン・クヌートソン(英語版)(ノルウェーではスヴェイン・アルフィフソンとして知られていた)を、エルギフとともに派遣した。オーラヴの帰国が拒絶された際、スヴェインらはノルウェー南部にて手間を取らされたが、オーラヴの治世時よりも人気を失っていった。 独立性を重んじ、新たな貢物がデンマーク式であることに特に憤慨していた人々に対して、エルギフはより厳しい規制と新たな税を課すことを試みた。 クヌートはまた、彼の長男ハーデクヌーズにデンマークを引き渡す準備をしていた。ノルウェーで実権を握ったハーデクヌーズはニダロスで大法廷を開きデンマーク王を宣言した。ステントンが指摘するように、別々の国で別々の息子が後継者に任命されたことで、クヌートには「彼の死後も連合したままである北方の帝国を創設するという熟慮された意図」がなかったことを示した。それは単にその民族らの慣習であったのかもしれない。いずれにせよ、彼の不在時に忠実かつ有能な摂政を見つけられなかった点が、クヌートの治世下を通じた帝国の弱点ということは明らかだった。彼の息子らも、協力して統治を維持することはできなかった。
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