カタラウヌムの戦い
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この頃までは、フン族とアエティウスは良好な関係を保っていた。アエティウスはフン王アッティラの元へ秘書官としてコンスタンティウスを送っていた。449年、アエティウスから送られていた秘書官コンスタンティウスによって金の皿が盗まれたとアッティラが怒る事件があり、アエティウスはアッティラを宥めるためにタトゥルスやロムルス(イタリア語版)ら使節団を派遣した。アッティラは返礼としてムーア人の小人ツェルコを贈り、アエティウスは彼を元の主人のアスパル (en) へ返している。 弟である皇帝ウァレンティニアヌス3世に恨みを抱いた姉のホノリア (en) が、フン王アッティラに助力を求めるため、指輪を持たせた使者を送った。アッティラはこれを「求婚」と解釈し、ウァレンティニアヌス帝に西ローマ帝国の半分を持参金として要求した。ウァレンティニアヌス帝はこの求婚を不法とする返答をしたが、アッティラはこの求婚を口実に、従属部族を動員して西ローマ帝国侵略を開始した。 451年にアッティラがガリアへ侵攻をした時のローマ帝国のガリア軍司令官はアエティウスだった。フン族の大軍は幾つかの都市を攻略しつつオルレアンへ進軍した。この時、同地に定住するアラン族はアッティラ側へ寝返る用意をしていた。 アエティウスは有力なガロ=ローマ人である元老院議員のアウィトゥス (en) の助けを受けて、西ゴート王テオドリクス1世 (en) に外敵の脅威に対抗するために参戦するよう説得した。アエティウスはまたアラン王サンギバン (en) の軍勢が、アッティラ率いるフン族へ合流するのを妨害することに成功した。そして、ローマ=西ゴート連合軍は、フン族の包囲下にあるオルレアン救援へ向かい、包囲を放棄させて平野部へと退却させた。 6月20日、アエティウスとテオドリクスはカタラウヌムの戦いでアッティラとその同盟部族に打ち勝った。この戦いでテオドリクスは戦死し、アエティウスはテオドリクスの王子トリスムンド (en) に、王位を確保するため直ちにトゥールーズ(西ゴート王国の首都)へと帰還するように勧めた。この為、アエティウスは戦利品を独り占めしたと言われた。 帰還したアッティラは452年に、再びホノリアとの結婚を主張した。アエティウスはイタリアへの進攻路であるアルプスの通過を防ぐための必要な手立てを取っていなかったので、アッティラはイタリアに侵入して多くの都市を略奪しはじめた。アクイレイアは完全に破壊され、それ以外の諸都市もフン族が通過した後には何物も残らなかった。ウァレンティニアヌス帝はラヴェンナを捨ててローマへと逃れた。この時のアエティウスには戦うべき戦力を欠いていた。アッティラはポー川で停止し、ここで彼は地方総督トリゲティウス(Trigetius)、元執政官アヴィエヌス(Aviennus)そして教皇レオ1世の使節と会見した。この会見の後、アッティラはホノリアも彼が望んだ領土も得ることなく軍を返した。翌453年、アッティラは自らの婚儀の祝宴の夜に急死した。
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カタラウヌムの戦い
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「テオドリック1世」の記事における「カタラウヌムの戦い」の解説
451年6月、カタラウヌムの戦い(トロワ近郊)で連合軍はフン族と会戦した。右翼をテオドリックが、左翼をトリスムンドが指揮した。テオドリックの軍はローマの決定的な勝利に貢献したが、彼はこの戦いで戦死した。東ローマ帝国の官僚ヨルダネスは、テオドリックの死を伝える2つの説を記している。1つは、戦闘中に落馬して馬に踏みつけられて絶命したというもの、もう1つは東ゴート族の戦士の槍に貫かれたというものである。テオドリックの遺体は戦闘の翌日に発見された。ゴートの慣習に則って、テオドリックの遺体は戦士たちの慟哭で迎えられ、戦場で火葬された。その後すぐ、息子トリスムンドが王位についた。
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