オランダ侵略戦争
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「アンリ・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュ (テュレンヌ子爵)」の記事における「オランダ侵略戦争」の解説
ルイ14世がオランダへの報復から引き起こした1672年のオランダ侵略戦争でもテュレンヌはルイ14世と共に進軍、北上してライン川を越えてオランダ諸州を荒らして大半を制圧した。しかし、オランダは洪水線を活用して堤防を決壊、国内を水浸しにしてフランス軍の進行を遅らせ、民衆が政変を起こして指導者コルネリス・デ・ウィットとヨハン・デ・ウィットを殺害してオラニエ公ウィレム3世を擁立した。ウィレム3世もフランスの後方を脅かしたり神聖ローマ帝国諸侯やスペインと同盟を結び徹底抗戦、ルイ14世は戦線停滞を見て指揮を放棄して現場を離れた。 この戦争の知らせはヨーロッパ中を駆けめぐり、神聖ローマ皇帝レオポルト1世・ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムを始めとする帝国諸侯がオランダ側に立ち参戦したため戦線がドイツへ広がっていった。テュレンヌは対策として8月にオランダからドイツへ移され、コンデ公がアルザスを押さえた間にライン川中流域で布陣、オランダ軍との合流を阻止した。 1673年1月、テュレンヌは攻勢に出るふりをしてドイツ内へ深く入り込み、ブランデンブルクに侵攻してフリードリヒ・ヴィルヘルムと和平を結ばせ戦争から離脱させた。しかし8月、ヴュルツブルクに進撃して略奪した隙に神聖ローマ帝国軍の将軍ライモンド・モンテクッコリがライン川を渡河して北上、テュレンヌを避けて左岸のコブレンツを通過した辺りでオランダ軍を率いたウィレム3世と合流してボンを落とした。戦略上の要地であるボンの陥落により帝国諸侯が更にオランダ側に就き、スペインの参戦とフランスの味方であったミュンスター司教とケルン選帝侯もオランダと和睦したため、フランス軍はオランダから撤退、1672年から一転して劣勢に傾いた。テュレンヌは冬営してプファルツ選帝侯領で略奪を働きアルザスに留まった。 1674年6月、フィリップスブルク(英語版)でライン川右岸へ渡り16日のジンスハイムの戦いで帝国軍に勝利し、ライン宮中伯の宮内官となり一時プファルツ選帝侯領の首都ハイデルベルクまで迫った。この時はパリからの命令で引き上げたものの、別の命令で帝国軍の拠点を無効化させるためドイツ各地を荒らし回った。トゥルクハイムの略奪を伴ったこの行為は常に、テュレンヌの名声の上で重大な汚点として数えられる。しかし略奪は効果を上げ、8月にアルザス侵攻のためプファルツ選帝侯領に進軍した帝国軍は荒廃した領土で食糧徴発が出来ず一旦撤退している。 9月にテュレンヌは北上、別のフランス軍が中立都市ストラスブールを攻撃したが撃退され、逆に帝国軍に明け渡したため、帝国軍はこの町の橋からライン川を渡りアルザスへ侵攻した。テュレンヌは急遽南下、10月4日にストラスブールから南のエンツハイムで帝国軍を攻撃した(エンツハイムの戦い)。この戦いは帝国軍に大損害を与えたフランス軍が勝利したが、テュレンヌも勝ったとはいえ損害が大きく追撃出来ず、帝国軍は南に後退してアルザスに留まった上、一旦離脱したフリードリヒ・ヴィルヘルム率いるブランデンブルク軍も合流して兵力を回復したため、戦略上はテュレンヌが劣勢のままだった。 12月初旬に帝国軍はアルザスで冬営した。テュレンヌはこの機に帝国軍への奇襲を思い立ち、サヴェルヌに若干の兵を残して西のロレーヌへ移動、南へ大きく回りこんでヴォージュ山脈を越えて翌1675年1月5日に帝国軍に奇襲をかけた(トゥルクハイムの戦い)。戦いはフランス軍の勝利となり帝国軍をアルザスから追い払い、次いで都市住民が起こした抵抗運動の報復としてプファルツを始めとする都市を略奪・焼き討ちし、2週間もの間残された住民達を虐殺した。こうして僅か数週間で彼はアルザスを完全に取り戻した。
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