エーバーハルト・ルートヴィヒ治世下(1704年 - 1733年)のバロック都市建設
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「ルートヴィヒスブルク」の記事における「エーバーハルト・ルートヴィヒ治世下(1704年 - 1733年)のバロック都市建設」の解説
ルートヴィヒスブルクは、何世紀にもわたって成長したヨーロッパの多くの都市とは異なり、18世紀初めに製図板の上で計画された都市である。ヴェルサイユ宮殿をモデルに、多くの絶対君主が古い都市の門前に新しい宮殿を建設した(たとえば、マンハイム、カールスルーエ、ラシュタット、ポツダム、ルートヴィヒスルスト(ドイツ語版、英語版)、ヴォルフェンビュッテル(ドイツ語版、英語版)など)。貴族の特権である狩りに専念するために、ヴュルテンベルク公エーバーハルト・ルートヴィヒは1704年に、古い首都シュトゥットガルトの郊外に城館を建設した。このルートヴィヒスブルク城は、当初は単に狩りの拠点としてのみ用いられていたが、シュトゥットガルトの宮殿であるアルテス・シュロス(ドイツ語版、英語版)(直訳: 古い城館)にはない様々な利点があった。シュトゥットガルトの宮殿は狭い中世風の建物であるため、あまり目立たない存在であった。これに対して城館庭園や広い道路を備えたルートヴィヒスブルクは、18世紀のシュトゥットガルトにまさに対抗しうる設計であった。ルートヴィヒスブルクの狩りの城は堂々たるルートヴィヒスブルク宮殿(ドイツ語版、英語版)に改築された。この城は、破壊を免れたドイツ最大の宮殿建築となっている。 エーバーハルト・ルートヴィヒの野心は、宮殿の建設だけで終わらなかった。彼は選帝侯への昇格を目指したが、かなわなかった。公爵の権利をはるかに超えた統治に関する野心を彼は、1709年からの全市にわたる都市建設において紛れのない形で表明したのであった。計画都市の設計では、宮殿を主軸に置いた。宮殿の西に接して都市型居住地を設けた。マルクト広場を中心に直交する道路網が街を規則的なブロックに分割した。3階建ての家屋が、イタリア出身の建築家ドナート・ジュゼッペ・フリゾーニ(ドイツ語版、英語版)の設計に基づき建設された。家屋は間を開けずに道路沿いに並べられるべきであるとした公爵の規則により、密集した建築線が形成された。都市景観は並木道によって印象が和らげられた。 1718年9月3日にこの街は都市権を得た。街に市民を呼び込むために、公爵は広範な特権を授けた。彼は15年間の無税、無償の借地と建築資材の提供を約束した。後にはさらに関税無料化と宗教の自由も追加された。それでもルートヴィヒスブルクの成長は緩慢であった。その原因は、1つには土地取得の機会がないことであり、もう一つは公爵によって操作された市民の選抜にあった。住民は少なくとも1,000ターラー以上の資産基盤を持つことが必要で、農民は不可であった。公爵はこうした方法で裕福な市民からなる理想都市を速やかに建設しようとしたのである。最初の21人の応募者のうち、ルートヴィヒスブルクに定住することが許されたのはわずかに2人だけであった。繁栄した都市というコンセプトは成功しなかった。城の建設現場には、主に資金力のない職人、下働き、メイド、日雇い労働者、宮廷の職員が雇われていたため、都市住民の半分は当分の間低所得者が占めていた。住民は経済的には公爵の宮廷に依存し続けた。 エーバーハルト・ルートヴィヒは、1718年にヴュルテンベルクの首都をシュトゥットガルトからルートヴィヒスブルクに移した。公爵は、ルートヴィヒスブルクへついて行くことを拒否したシュトゥットガルトの役人を解雇すると脅しつけた。強制移住により君主に忠実な官僚制度をルートヴィヒスブルクに確立しようとしたのであった。役人の多くは、法学者のヨハン・ヤーコプ・モーザー(ドイツ語版、英語版)が嘆いているように「湿った、半分だけできあがった家」に住んだ。他の同時代人も公爵の努力を嘲笑している: .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}この君主はシュトゥットガルトを衰退させたが、ルートヴィヒスブルクがまともな街になることなどありえない。 —プロイセンの文筆家 カール・ルートヴィヒ・フォン・ペルニッツ(ドイツ語版、英語版) エーバーハルト・ルートヴィヒが亡くなった時、ルートヴィヒスブルクの人口はシュトゥットガルトと同等の 6,000人であった。市民の間での悪評の原因は、ルートヴィヒスブルクの宮廷の風紀やモラルの状態にあった。ヴュルテンベルク公領の住民には福音主義=ルター派の信仰が根付いていた。そのため、公爵が正当な公妃ヨハンナ・エリーザベト・フォン・バーデン=ドゥルラハ(ドイツ語版、英語版)をシュトゥットガルトに残したまま、ルートヴィヒスブルクで愛妾のヴィルヘルミーネ・フォン・グレーヴェニッツ(ドイツ語版、英語版)と婚外で関係を持ったことに憤慨したのであった。人々はルートヴィヒスブルクを「ルンペンブルク」(直訳: だらしない城)と陰口した。エーバーハルト・ルートヴィヒは自らの公妃の隠居所として、街と宮殿を拡張して狩りと別荘の城館ファヴォリーテ城(ドイツ語版、英語版)(工期: 1713年 - 1728年)を建設した。エーバーハルト・ルートヴィヒ公は1728年にグレーヴェニッツ宮殿を建設し(おそらく都市計画者ドナート・ジュゼッペ・フリゾーニが建設)、愛妾に贈った。元々3階建てであったこの建物は、宮殿近くのマールシュタル通り5番地にあり、城館演劇祭のオフィスが入居している。 この街は創建当時から軍事とも緊密なつながりがある。エーバーハルト・ルートヴィヒ時代までルートヴィヒスブルクには兵舎がなかったため、40人の近衛兵は民間の家に住んでいた。近衛兵2人ずつがシフト交替で宮殿内のエーバーハルト・ルートヴィヒを警護した。ルートヴィヒスブルクが本当に兵舎の街となるのは、1736年のカール・アレクサンダー公の治世からであった。
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