エラスムスとトマス・モア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 04:57 UTC 版)
「中世ヨーロッパにおける教会と国家」の記事における「エラスムスとトマス・モア」の解説
エラスムスはパウロの「ローマの信徒への手紙」に影響を受け、聖書を自ら再検討しようと考え、ギリシア語を学んで『校訂ギリシア語新約聖書』を著した。これは印刷術の進歩による後押しもあって当時広汎な地域に流通し読まれた。エラスムスは教会の腐敗と信仰における聖書の重視を訴え、教会が聖書解釈を独占しようとして一般信徒に聖書を調べることをしばしば禁じていることを批判し、一般信徒が理解しやすい自国語で聖書に書かれた福音を聞くことがキリストの御心に沿うものであることを主張した。この面でエラスムスはのちの宗教改革者と同じ平面に立っていたが、彼は教皇首位権の普遍性を疑っておらず、また宗教改革派が世俗権力と結びつく傾向を見て、これを公然と批判するようになった。またエラスムスとルターの教義解釈において、決定的な相違点としては自由意志の問題がある。ルターは「ローマ信徒への手紙」とアウグスティヌスに影響されて予定説に基づいた信仰義認説にいたったが、そこではただ「信仰のみ」が救いに至る道であるとされたのに対し、エラスムスは大部分の人文主義者と同じように信仰における自由意志を信じていた。ともかく両者はこのように、教会の腐敗への批判と聖書の重視という点では一致していたが、その教義上の立場も政治上の立場も全く異なるものであった。[要出典] エラスムス自身は教会の普遍性を信じ、カトリックとプロテスタントの統一に尽力したが、エラスムスの死後に宗教改革がますます激しさを増すと、当初は広汎に聖職者の支持を集めていたかに思えた彼の著作が宗教改革派との共通点を指摘されて、1546年、トリエント公会議で禁書処分にされた。[要出典] エラスムスと親交のあったトマス・モアは著書『ユートピア(最上の国家、すなわちユートピア(どこにもない)という新しい島の状態について』(1516年)において当時のイングランドを批判し、「庶民は自分たちのために国王を選んだのであって、国王のために国王を選んだわけではない」とのべ、さらにcommon wealth(公共善)としてのレス・プブリカに値する本当の国家としてユートピアという島において、私有財産のない社会、計画経済、教育、宗教などについてのフィクションを提示した。モアにとって国家は宗教の権威によって支えられない。寛容は義務であり、国民の信仰と、国家が法的な保護を行うことを分離し、信仰はプライヴェートな私事の領域に入っていく。こうしてモアは国家を特定の宗教、宗派から中立的なものにする。この意味において、モアは政教分離思想の先駆者ということができる。ただし、モアは無神論は寛容しなかったことには注意する必要がある。
※この「エラスムスとトマス・モア」の解説は、「中世ヨーロッパにおける教会と国家」の解説の一部です。
「エラスムスとトマス・モア」を含む「中世ヨーロッパにおける教会と国家」の記事については、「中世ヨーロッパにおける教会と国家」の概要を参照ください。
- エラスムスとトマス・モアのページへのリンク