インディアン寄宿学校での生活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/26 22:00 UTC 版)
「インディアン寄宿学校」の記事における「インディアン寄宿学校での生活」の解説
「インディアン寄宿学校」での生活は、以下のようなものであった。 親元から引き離されたインディアンの5歳から10歳までの児童たちは、「黄色いバス」に乗せられ、わざと彼らの保留地から数百キロ離れて選んだ地に入学させられた。入学するとまず身体を洗われて部族の衣服を脱がされ、制服に着替えさせられ、髪を短く切られた。インディアンにとって髪を切るのは、身内が亡くなった時である。ミネソタ州の「パイプ・ストーン寄宿学校」に入れられたデニス・バンクスはこのときの自らの体験として、「みんな家族が死んだと思って泣き叫んだ」と回想している。 部族の名を名乗ることは禁じられ、「ハンフリー」や「マーガレット」といった白人の名前のいくつかの候補の中から適当なものをつけられた。日常生活は朝6時から午後10時までで、軍服での行進が日課にあり、軍事教練を基本にした規律で縛られた。教員は白人だった。学習内容は、読み書き算数のほか、男子は大工仕事や農業、女子は白人料理と裁縫といった手内職である。このほとんどは保留地では何の役にも立たなかった。課目は過密であり、生徒に考える余裕を持たせないように図られていた。 聖書の暗記とキリスト教の祈祷が強制され、部族の信仰は弾圧され禁止された。英語以外の言葉で話すことは禁じられ、話せば「汚い」言葉を話した罰として教師に石鹸を食べさせられたり、石鹸で口をゆすがされたり、ビンタを食うなどした。もちろん、彼らの幼い心は深い心的外傷を負った。白人の食べ物しか食べさせられず、インディアンの伝統食は許されなかった。児童生徒たちに許された娯楽はフットボールや野球といった白人の遊びだけで、伝統的な遊びは許されなかった。 学校によって異なったが、学年は最大で12学年まであり、学期末の夏休みにのみ故郷の保留地への帰省が許されたが、家族の事情で帰省できない児童も多かった。脱走も多かったが、家から数百マイルという距離がそれを阻止した。ホームシックにかかることは「恥ずべきこと」とされ、脱走者には、「ホット・ライン」というガントレットに似た懲罰が加えられた。これは、教師がまず鞭を加え、次に鞭や棒を持って並ばせた20人ほどの生徒達が殴りかかる中を走らされるというものである。前述のデニス・バンクスはそれでも抵抗したために、教師によって丸刈りにされ、数日間女子の制服を着せられて生活させられたと語っている。児童生徒が精神的虐待や性的虐待を受ける例もあった。 学生たちは、インディアンの生活様式が白人のものよりも「野蛮で劣っている(savage and inferior)」と教え込まれ、彼らは寄宿学校に入ることでより良い生活様式に教化・上昇(raised up)していると教えられた。また、伝統文化を守るインディアンたちは「ばか(stupid)で汚い(dirty)」とされ、最も速く白人文化に同化したインディアン達を「良いインディアン」と呼び、そうでない人々を「悪いインディアン」と呼ばせた。 インディアン学生は、お互いをスパイする義務が課せられており、つねに教師による監視下にあり、プライバシーは一切無かった。これはほとんどのインディアン部族がプライバシーを非常に尊重する文化を持っているのと対照的である[要出典]。
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