インディアン兵の脱落
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/07/19 06:48 UTC 版)
「ヘイヴァーヒル奇襲」の記事における「インディアン兵の脱落」の解説
遠征の構成員たちは、7月の半ばにセントローレンス川を出発した。ケベックの部隊がサンフランソワ川を上っていた時、事故でヒューロンの兵が1人死んだ。このことは、多くのインディアンに不吉の前兆と映り、ヒューロン族の兵たちは戻って行った。モントリオールから来たイロコイ族の中で、何人かの兵が、シャンプラン湖を経由して旅をしている時に病気になり、あとのイロコイ兵たちが遠征を続けるのを拒否した。当時これは、戦闘を避けるためのイロコイ族の策略だと考えられた。ヴォードルイユは、これが策略であること、そして、オールバニのイギリス系住民から、「イギリスとの戦争に参加しないために」遠征を故意に放棄するやり方を選んだというのは事実であると信じていた。インディアンたちの撤退により遠征が滞ったものの、ヴォードルイユは、たとえもう援軍がなかったとしても、ルーヴィユに前進を続けるよう命令した。ルーヴィユ率いる奇襲隊がウィニペサウケ湖に着いた時、ルーヴィユは東部出身のインディアンが、遠征に参加したがっていないことに気づいた。その後ルーヴィユは、160人部隊で出発した。このため、守りの手薄な場所を攻撃するしか方法が無くなっていた。 何年もの間、ヘイヴァーヒルは奇襲の目的地候補だった。この集落は、1704年の奇襲と、九年戦争(大同盟戦争、ウィリアム王戦争)の初期の奇襲で構造は既によくわかっていた。民家が25軒から30軒と特に大きくもなく、位置的にも防御ができているとは言い難く、防備を強化しているのはほんの何軒かにすぎなかった。住民に警戒されないうちに、奇襲隊はこの集落を何度もすばやく出入りした。集落の外に出た奇襲隊は、8月29日の日曜日に奇襲することを決め、準備を始めた。当時ヘイヴァーヒルの近くに住んでおり、流浪の身であったアベナキ族軍の首長エスカムビュイト(ネスカムビュイス)は、奇襲の噂を聞きつけ、遠征の途中のある地点から参加した。 この時、ヘイヴァーヒルの防御に関しての責任は二分されていた。この地の民兵はサイモン・ウェインライトの指揮下にあり、このウェインライトの家からは集落全体が見渡せた。植民地部隊の3つの小さな駐屯隊(3人から4人規模の)が補足部隊として駐屯隊しており、全面的な指揮権は少佐のターナーにあった。
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