インディアン制圧戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/10/08 05:25 UTC 版)
「アーサー・セントクレア」の記事における「インディアン制圧戦」の解説
アメリカ合衆国が独立戦争後に獲得した北西部領土の治め方を定義した1787年の北西部条例の下で、セントクレアは今日のオハイオ州、インディアナ州、イリノイ州、ミシガン州の全部とウィスコンシン州、ミネソタ州の一部を包含する領土の知事に指名された。セントクレアはシンシナティ協会の名前を貰ってシンシナティの市の名前を付け、自分の家をそこに建てた。北西部領土が1800年に分割された時、セントクレアはオハイオ領土の最初で最期の知事となった。 セントクレア知事は領土での初めての成文法である「マクスウェルの法典」を作った。セントクレアはインディアンたちのオハイオの土地に対する所有権主張を弾圧し、白人の植民への道を開いた。1789年、セントクレアは一部のインディアンとハーマー砦の条約を締結することに成功したが、多くの部族の指導者は交渉への参加を呼びかけられなかったか、参加を拒んだ。この条約はインディアンの主張を抑えるよりも却って抵抗をうみ、北西インディアン戦争(あるいはリトル・タートルの戦争)につながった。互いの敵対心がジョシア・ハーマー将軍の方面作戦を引き起こし、1790年、ハーマー将軍の1,500名の部隊がインディアンに破れるという事が起きた。 1791年、セントクレアはアメリカ合衆国陸軍の上級将軍としてハーマー将軍の後を引き継いだ。セントクレアは2個連隊と民兵からなる懲罰的遠征を指揮した。この部隊はウォバッシュ川にあったインディアン保留地(Reservation)に侵攻したが、11月4日、マイアミ族酋長リトル・タートル(ミシキナクワ)とショーニー族酋長ブルー・ジャケット(ワヤピエセンワー)の部族連合との戦闘で大敗を喫した。この「セントクレアの敗北」、あるいはコロンビアの虐殺、あるいはウォバッシュの戦いと呼ばれる戦闘で600名以上の兵士と数十人の女性と子供が殺された。この時のアメリカ軍の兵士の戦死623名に対し、インディアン戦士の戦死21名という数字は、「アメリカ軍最大の敗北」と言われる。この大失敗の後、セントクレアはワシントン大統領の要請で軍隊から引く事になったが、北西部領土の知事の職は続けた。 セントクレアは連邦主義者だったので、オハイオ領土から2つの州を作ってアメリカ合衆国議会における連邦党の発言権をたかめることを期待した。しかしセントクレアはその党派心や高飛車なところ、執務における頑固さについてオハイオの民主共和党員から嫌われることになった。1802年、セントクレアがオハイオの州昇格に反対したために、トマス・ジェファーソン大統領は領土知事の職からセントクレアを更迭した。かくしてセントクレアは1803年のオハイオ州昇格に何の貢献も果たさないことになった。オハイオ州の最初の憲法は、セントクレアの統治法に対する反動と言う意味合いもあり、弱い知事、強い議会を規定することになった。 セントクレアは1818年8月31日にペンシルベニア州グリーンズバーグで貧窮のうちに80歳の生涯を閉じた。セントクレアの持っていた大きな富は寛大な贈与と借金、また事業の失敗により消失していた。 ペンシルベニア州ヤングスタウンにあったセントクレアの家「隠者の住処」の一部は後にリゴニアに移されて現在は博物館として保存されている。ペンシルベニア州アッパー・セントクレアとセントクレアズビル、イリノイ州セントクレア郡、ミズーリ州のセントクレア郡、オハイオ州のセントクレア町とセントクレアズビル、アラバマ州セントクレア郡はそれぞれセントクレアの名前に因んで名づけられた。
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