イタリック体活字
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「フランチェスコ・グリフォ」の記事における「イタリック体活字」の解説
「イタリック体#歴史」も参照 アルド印刷所でローマン体活字、ギリシア語活字を製作してから数年後、グリフォは最初のイタリック体活字を彫った。歴史上初めてイタリック体を金属活字として鋳造したのが、グリフォとアルド印刷所であるとされる。この活字は、「チャンサリー・カーシブ」(イタリア語: cancelleresca corsiva、英語: chancery cursiveまたはchancery hand。チャンサリー・イタリック、チャンサリー・バスタルダとも)をモデルにしている。チャンサリー・カーシブとは、ローマ教皇庁に勤める書記官が様式化したルネサンス期の書法(「チャンサリー」は教皇庁と教会とをむすぶ通信機関である「教皇庁尚書院」のこと)である。文字が非常に細く右に傾いているので、ヒューマニスト書体を速く書くのに適しており、当時人文主義者らの間でも人気があった。1455年ごろからルネサンス期に活躍したパドヴァ人スクライブのバルトロメオ・サンヴィート(英語版)(1433-1511)がマヌティウスに、チャンサリー・カーシブの手書き文字のモデルと小型サイズの古典シリーズのアイデアを提供した可能性が高い。マヌティウスが1514年にピエトロ・ベンボに献呈したウェルギリウスの序文において、ベルナルド・ベンボの蔵書から着想を得て当該小型本を作成した旨が示唆されているが、ベルナルド・ベンボがマヌティウスに貸し出した本の中には1485年および1497年にサンヴィートが書き写したホラティウスの著作集とキケロの『義務について』が含まれていたと考えられるためである。 グリフォが製作したこのイタリック体では「チャンサリー・カーシブ」の最大の特徴である「筆記による傾斜」が小文字にのみ採用され、大文字は直立したローマン体のままであった。 アルド印刷所でこのイタリック体が本格的に用いられたのは、1501年出版のウェルギリウス『作品集』においてである。マヌティウスは前述のように、同年出版されたウェルギリウス『牧歌』の序文においてグリフォの仕事を公に認め賞賛したが、一方でそのアイデア自体は自分のものだと主張した。そして同年、マヌティウスがグリフォの彫ったイタリック体の10年間の独占使用権を得たことが原因となって、グリフォはアルド印刷所を去ることになった。 ファーノのソンチーノの元で、グリフォは2番目のイタリック体活字を製作する。この新しいイタリック体は1503年にペトラルカの『Opere volgari』の印刷で初めて使用された。また、1512年にBernardino Stagninoが出版した『Opere del divino poeta Danthe』では、本文用の約12ポイントのイタリック体と、注釈用のより小さなイタリック体の2種類が使用されており、前者はグリフォが1503年に製作した2番目のイタリック体と同一のものである。Stagninoはこの書体を他の出版物でも使用した。一方後者は9ポイントのサイズで彫られ、この時点までのグリフォの活字の中では最も小さかった。 1516年にボローニャで自らの印刷所を立ち上げた後にも、グリフォはイタリック体活字を製作している。1516年秋のペトラルカ『歌曲集』およびそれに続く非常に小さなサイズの古典作品を印刷するために、グリフォはこれまでよりもさらに小さい6ポイントの新しいイタリック体活字を彫った。
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