イタリック人内の温度差
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 04:31 UTC 版)
「同盟市戦争」の記事における「イタリック人内の温度差」の解説
イタリア人の運命は残酷だった。彼らは、自分たちが守っている国の市民権を求めていたのだ。毎年の戦争では、騎兵と歩兵共に二倍の兵力を提供していたにもかかわらず、彼らの流す血によって、同じ血を引く人間たちを、外国人と見下すほどに登り詰めた国家の、市民権を得られなかったのだ。 ウェッレイウス『ローマ史』2.15.2 イタリック人の対ローマ感情は、オスク語を母語とする集団と、エトルリアやウンブリアとで大きく異なる。また、例えばユグルタ戦争でユグルタに包囲されたキルタ(現コンスタンティーヌ)には、イタリア出身の事業家たち(negotiatores)がいたとされるが、その中にはローマ人だけでなくイタリック人も含まれていたと考えられており、これらの事業家の多くが、南部の海軍同盟市(socii navales)出身であった可能性が高い。 エトルリアやウンブリアは、あまり激しい抵抗をせずローマの支配下に入ったが、対照的にオスク語族は、例えばカウディウムの戦いのように記憶に残る激戦の末に兵力供出義務を課されており、エトルリアやウンブリアは兵力供出義務がなかったのではないかとの推測もある。彼らが軍隊を提供したのはハンニバルやガリア人にローマが攻撃された時代の話だった。そのため、エトルリアとウンブリアの対ローマ感情はそこまで悪くはなく、交易にもあまり熱心でなかった彼らの関心は、公有地の利用権にあった。 一方、オスク語族の関心は市民権にあったと考えられている。彼らの中でもマルシ人はあまり対立してこなかったが、サムニウム人は激しい戦いを経験しており、ローマ人が海外で戦うたびに駆り出された同盟市の兵力はローマ軍を上回っていたが、彼らは差別的な扱いを受けていたとも考えられ、高位政務官の振るうインペリウムに抵抗するためには、せめてローマ市民にはウァレリウス法などで認められていた上訴権(ius provocationis)が必要だった。
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