イタリカの体制
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 04:31 UTC 版)
イタリカの体制については、シケリアのディオドロスの断片の9世紀に残された要約から、ローマの体制の模倣と長らく考えられてきた。すなわち、コルフィニウムを首都とし、500人からなる元老院と、イタリカ元老院に毎年任命される2人の執政官と12人のプラエトルからなる組織である。しかしながら、戦争中にも関わらず毎年任命、もしくは選挙することが出来たのかどうか、説得力のある説明はいまだされていない。 イタリカの軍事指導者の地位は、アッピアノスはその幾人かをインペラトルとし、リウィウスの概略ではドゥクスとしている。また、彼らはイタリカ軍は民族ごとに分かれていたようにも描写している。イタリカの首都は紀元前89年にはアエセルニアに移されたが、サムニウムの指導者の一人であったガイウス・パピウス・ムティルス(英語版)の死後、ポッパエディウス・シロに至高のインペリウム(summum imperium)を与えることが決定されている。ポッパエディウス・シロは翌年凱旋式を挙行しているため、この至高のインペリウムは、鳥卜権付きの完全なインペリウムを指すものと考えられている。 このように幾つかの史料からの推測として、イタリカの指導部はサムニウムのムティルスと、マルシ人のポッパエディウス・シロを最高司令官とし、その下に各民族から選挙によらず任命されたインペラトルが付き、彼らは死亡すると交代していたと考えられる。イタリカは戦争遂行のための組織であり、彼らの目的は、これまで市民権の獲得、法の下の平等、ローマからの独立など、様々な説が提示されてきたが、おそらく市民権の獲得であったと考えられ、ローマ人よりも先に、インペラトルを正式な地位名として使用していた可能性もあるという。なお、彼らの発行した硬貨には、Italia、もしくはそのオスク語のViteliuと刻まれていた。 同盟市戦争後の紀元前82年、再度立ち上がったサムニウムの司令官は、コッリナ門の戦い (紀元前82年)(英語版)でこう叫んだという。 ローマは、ハンニバルに後3マイルのところまで迫られたとき以来、最大の危機にさらされていた。「ローマ最後の日がやってきた!イタリアの自由を奪ったオオカミ共め!この巣を打ち壊さない限り、奴らはまた湧いてくるぞ!」 ウェッレイウス『ローマ史』2.27
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