アメリカ合衆国の欧州戦線への参戦・大戦での勝利
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/28 14:29 UTC 版)
「イギリスの歴史」の記事における「アメリカ合衆国の欧州戦線への参戦・大戦での勝利」の解説
チャーチルは1941年12月の真珠湾攻撃以前からアメリカ合衆国の大戦参加を要求していたが、米国の当時民主党フランクリン・ルーズベルト大統領は大戦への参加には終始及び腰であった。 しかし、日本の対米英蘭宣戦布告に伴って、独伊も対米宣戦布告をしたことはイギリスにとって「渡りに船」であった。これによってアメリカ合衆国はヨーロッパ戦線への参戦が可能になりイギリスは直接支援を得ることができる相手を見つけることができた。目下の目標は北アフリカ戦線の攻略であり、将来的な目標は西部戦線の復活であった。 1943年5月までに北アフリカ戦線は終結し、8月には地中海を越えてシチリアに上陸、9月にはイタリア半島本土に取り付くことに成功した。本土への連合軍上陸を許したイタリアは9月8日に無条件降伏した。但しベニート・ムッソリーニは北部に逃れたため、ドイツ軍の支援によってイタリア戦線は継続された。 続いて西部戦線の復活が具体的に検討され始めた。1942年から1943年にかけて予備的な上陸作戦が行われた後、1944年6月6日に英米軍を主体としたノルマンディーへの大規模な上陸作戦が計画され、ノルマンディー上陸作戦が実行された。これによって西部戦線が復活し、ナチス・ドイツを劣勢に追い込み東西両方から挟み込む体制が確立した。以降戦争は急激に連合軍優位に進展していくことになった。8月末には仏首都パリを開放、9月初めにはアントウェルペンを解放しヨーロッパ西部の戦線は急激に拡大していった。1945年4月には独ソ戦においてソ連軍がベルリンに侵攻、独裁者アドルフ・ヒトラーはベルリン地下壕で自殺し5月8日にナチス・ドイツは連合軍に対し無条件降伏した。そして、ドイツはナチ党政権が事実上崩壊し、米英仏ソ四ヶ国による連合軍軍政期に入った。 アジア・太平洋戦線でも、物資、工業力に勝るアメリカ合衆国がイギリスを置いて優位に戦線を展開し、米大統領ハリー・S・トルーマン、英首相クレメント・アトリー政権下の1945年9月2日には連合国に対するポツダム宣言受諾の調印がなされ、日本も無条件降伏した(日本の降伏)。
※この「アメリカ合衆国の欧州戦線への参戦・大戦での勝利」の解説は、「イギリスの歴史」の解説の一部です。
「アメリカ合衆国の欧州戦線への参戦・大戦での勝利」を含む「イギリスの歴史」の記事については、「イギリスの歴史」の概要を参照ください。
- アメリカ合衆国の欧州戦線への参戦大戦での勝利のページへのリンク