アフリカ西岸の探検
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 08:50 UTC 版)
「エンリケ航海王子」の記事における「アフリカ西岸の探検」の解説
1419年、前年12月にエンリケが派遣したジョアン・ゴンサルヴェス・ザルコとトリスタン・ヴァス・テイシェイラによって、マデイラ諸島が「発見」され、翌年から植民地化が始められた。これはエンリケの事業にとって、最初の成果となるものである。 1427年、ディオゴ・デ・シルベスがアゾレス諸島を発見し、以後、この諸島においてゴンサロ・ヴェーリョ・カブラルらが探検行を行った。 エンリケの時代まで、ヨーロッパの人々に知られていたアフリカ沿岸の最南端の地はカナリア諸島より200キロ南に位置するボハドル岬(英語版)であったが、この頃、ボハドル岬の先には世界の果てがあり、煮えたぎる海が広がっていると信じられており、当時の航海者の間でこの迷信に対する恐怖は絶大なもので、ボハドル岬を越えての航海を実現させることは不可能に等しかった。エンリケは1422年頃からこの迷信に挑み続け、たびたび探検隊を派遣したが、失敗を繰り返していた。1434年に到って、エンリケがジル・エアネスに与えて派遣した探検隊によって、この地が踏破され、これにより航海者に長く信じられた迷信が打破された。このことは後の未知の地への探検行を促した点で重要な出来事となった。 1433年、死去したジョアン1世の跡を受けてポルトガル国王に即位したエンリケの兄ドゥアルテ1世は、ボハドル岬以遠の新規到達地における商業上の利益の内、その5分の1をエンリケに支払う旨を約した。 1437年、周囲の反対を押し切って北アフリカのタンジールに派兵するが、イスラム勢力に完敗し、失敗に終った。この時、弟であるフェルナンド王子が捕らえられ、王子は40歳で死去するまでの6年間を捕虜としてその地で送ることとなるなどし、この失敗により、エンリケの軍事上の評価は地に落ち、これ以後、エンリケは晩年に到るまで、その身を国内政治と探検事業のみに捧げることとなる。 1438年、ドゥアルテ1世の治世がわずか5年で終わると、エンリケは、ドゥアルテ1世から与えられた自らの特権についての保証を得ることを見返りに、もう一人の兄であるコインブラ公ペドロを支持し、筋書き通り、ドゥアルテの子で、エンリケとペドロにとっては甥にあたる、わずか6歳のアフォンソをアフォンソ5世として即位させ、摂政となったペドロとともにこれを支えた。このアフォンソ5世の治世において、アゾレス諸島の植民地化が本格的に始まった。 この頃、ポルトガルにおいて新たに開発されたキャラベル船によって、探検事業は飛躍的な進展を遂げることとなる。1441年、ヌーノ・トリスタンとアントン・ゴンサウヴェス(英語版)によって、現在のモーリタニア沿岸に位置するブランコ岬(英語版)に到達。1443年にはアルギン湾(英語版)に達し、1448年にこの地にポルトガルの要塞を築いた。 1444年、バルトロメウ・ディアスの父であるディニス・ディアスがセネガル川とヴェルデ岬に到達。ギニアを訪れると共に、サハラ砂漠の南端に達した。これによりエンリケは、サハラ砂漠を通過するキャラバンに頼ることなくアフリカ南部の富を手に入れる航路を確立するという、当初の目的を達した。アフリカ南部から大量の金を得ることができるようになったことで、1452年にはポルトガルでは初となる金貨が鋳造された。 この時期になると、エンリケは国政の関与においても多忙を極め、後世に残るものとしては、コインブラ大学に天文学の講座を設けるなどの施策を行っている。 1444年から1446年にかけ、およそ14隻の探検船がラゴスの港より出港した。1450年代、カーボベルデにおいて群島が発見され、1460年には探検行は今日のシエラレオネ沿岸にまで達した。 シエラレオネに到達した1460年、エンリケは「王子の村」において66年の生涯を閉じた。その生涯において、シエラレオネに到るまで、エンリケの派遣した船団はアフリカ沿岸の実に2400キロもの距離を踏破した。エンリケの事跡は後のジョアン2世の時代におけるポルトガルの海外進出への道筋を付ける形となり、エンリケの死から28年後の1488年には、バルトロメウ・ディアスによって、ポルトガルはアフリカ最南端の喜望峰を極めることとなる。 大航海時代の幕を開いたエンリケの名は、その死後、「航海王子」の敬称とともに呼ばれ、その名を今日に留めている。
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