アジアの戦闘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 15:13 UTC 版)
オランダ東インド会社はそれまで、ケープ植民地より東にある自身の植民地を自分で守る責任を負ったが、第四次英蘭戦争ではじめてオランダ海軍からの援助を必要とした。しかし、最初は船が不足し、使える海軍だけではイギリスがオランダ植民地を実効支配することを防げなかった(例えば、インド亜大陸におけるオランダ植民地は全て占領された)。1782年初、イギリスのサー・エドワード・ヒューズ(英語版)はセイロンの東海岸にある、ベンガル湾最良の港口とされるトリンコマリーを占領した。 1781年3月、イギリスのジョージ・ジョンストーン(英語版)提督はケープ植民地を占領すべく派遣された。すでにインドに艦隊を派遣することを計画していたフランスはケープ植民地侵攻に関する情報を得て、インドに派遣される予定だった艦隊の指揮官ピエール・アンドレ・ド・シュフランにジョンストーンよりも早くケープ植民地に到着することを試みるよう命じた。ジョンストーンとシュフランが偶発的にポルト・プラヤの海戦を戦った後、シュフランはジョンストーンよりも早く到着することに成功、フランス軍の実力でジョンストーンに植民地攻撃を取りやめさせた。サルダーニャ湾の海戦(英語版)でオランダ東インド会社の船を数隻拿捕した後、ジョンストーンは北大西洋水域に戻った。 シュフランはそのままイル・ド・フランス(現モーリシャス)、続いてインドに向かった。インドに到着すると、ヒューズに対し軍事行動を起こした。例えば、1781年にイギリスに占領されたオランダ領ナーガパッティナムの奪回を試みたが、ヒューズに阻まれ(英語版)失敗した。8月にはトリンコマリーの海戦(英語版)でトリンコマリーを再占領、海戦ではヒューズと膠着に持ち込むことに成功した。その後は両艦隊とも撤退、イギリスはボンベイで、フランスはオランダ植民地のスマトラ島で艦隊の修理を行った。両艦隊は1783年のカッダロールの海戦(英語版)で再び交戦、またしても決着しなかったが、このときには講和交渉が進んでいるとの報せがインドにも届いた。 スマトラでは1781年8月に開戦の報せが届いた。オランダとイギリスの東インド会社ともスマトラに交易所を設けていたが、イギリス側のマールバラ砦(英語版)ではスマトラ西海岸にある全てのオランダ交易地を破壊するとの命令が届いた。幸運なことに、イースト・インディアマン5隻が直後に到着したため、イギリス東インド会社当局は行動を起こした。会社の総裁の1人であり、艦隊と会社の兵士100人を率いたヘンリー・ボサム(Henry Botham)はパダンに向けて出航した。8月18日、パダンにいるオランダ東インド会社の総督ヤコブ・ファン・ヘームスケルク(Jacob van Heemskerk)はボサムの軍勢が比較的に弱いことに気付かず、戦わないままスマトラ西海岸全ての交易地を代表して降伏した。これによりイギリスは合計50万フローリンの戦利品を得た。パダンは1784年にオランダ東インド会社に返還されたが、パダンの要塞は返還の前に破壊された。
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