アウグスティヌス会修道士ルター
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「レオ10世による贖宥状」の記事における「アウグスティヌス会修道士ルター」の解説
1520年のルターの肖像(銅版画)。 贖宥状を売る教皇(左)と赦しを与えるキリスト(右)(1525年頃) アウグスティヌス修道会で神学を学んだマルティン・ルターは、贖宥状を買ったというヴィッテンベルクの庶民から、テッツェルの様子を聞き、贖宥状販売に対する疑義を募らせた。テッツェルがヴィッテンベルクに近づいた1516年7月、ルターは贖宥状の有効性に疑問を呈する説教をはじめた。しかしこれが大きな問題となったのは翌1517年秋のことである。 詳細は95ヶ条の論題、マルティン・ルターを参照。 通説では、1517年の万聖節の前夜、すなわち1517年10月31日夜中に、ルターは「95ヶ条の論題」をヴィッテンベルクの城に附属する教会の門扉に貼りだしたとされている。それが史実であるかどうかは議論がわかれていて決着していないが、いずれにせよ「95ヶ条の論題」はその頃公表され、ルターの意図とは違った形でドイツ中に大きな反響を巻き起こしていった。 この文書はラテン語で書かれており、学者にしか読めないものだった。つまり、ルターには社会に向かって大々的に贖宥状を批判しようという意図はなかった。ルターは、「罪」と「罰」の関係、贖宥の教理についてドミニコ修道会と学術討論を呼びかけたにすぎないのであり、「95ヶ条の論題」は、討論会の開催案内に過ぎない文書だった。ルターの考えでは、贖宥状は教会が与える現世の罰を減免することはできても、罪そのものを祓ったり、まだ告解してさえいない罪や神の最終審判にまで影響を及ぼすという説明は、贖宥の教理を逸脱しているものだった。ルターは議論によってこれを確認しようとしただけだった。また、ルターはこの贖宥状の売上金がマインツ大司教やレオ10世の借金返済に充てられるとは全く知らなかったので、彼らも悪い部下に騙されていると考えていた。 しかし、予てからアウグスティヌス修道会と対立関係にあったドミニコ修道会は、これを重大な挑戦だと受け取って騒ぎを大きくした。両修道会の喧嘩を面白がったドイツの人々が「95ヶ条の論題」をドイツ語に翻訳してばら撒いたため、話は一気にドイツ中に広まってしまった。当初は教皇レオ10世でさえ、これを両修道会のくだらない喧嘩だとみなしていた。ところがドミニコ修道会の攻撃に晒され、巧みな論法で誘導されたルターは、ライプツィヒ討論の場でうっかり異端のフスを擁護するような発言をしてしまった。これによりルター自身も異端であるとの烙印を押されることになった。 その後ヴォルムス帝国議会を経て、ルターはザクセン選帝侯を筆頭とするドイツ諸侯の庇護下に置かれるようになった。これは純然とした信教上の問題というよりは、ドイツ支配を強化しようとするハプスブルク家の神聖ローマ皇帝カール5世と、それに対抗するドイツ諸侯の政治的争いだった。カール5世はローマ教皇とも対立しており、またフランスやトルコとの戦争遂行にドイツの協力を必要としていたために、長いあいだ宗教問題でドイツ諸侯に対して強硬な立場を取れなかった。そのあいだに宗教改革の動きはドイツへ拡大していった。 詳細は宗教改革およびドイツの宗教改革を参照。
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