平林城跡とは? わかりやすく解説

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平林城跡

名称: 平林城跡
ふりがな ひらばやしじょうあと
種別 史跡
種別2:
都道府県 新潟県
市区町村 村上市
管理団体
指定年月日 1978.09.18(昭和53.09.18)
指定基準 史2
特別指定年月日
追加指定年月日
解説文: S51-12-010[[平林城跡]ひらばやしようせき].txt: 平林城は、中世北越後の小泉加納領した色部氏累代居館及び山城である。
 小泉庄は、越後国北端岩船郡中央部占め広大な庄園で、平安時代中頃藤原氏中御門家領家として立券され、平安時代末頃には、庄域は本庄及び加納から成っていた。鎌倉幕府成立後は、二分され秩父氏一族臥牛山城(村上城)を居城として本庄氏名乗る一方加納地頭平林城拠って色部条、牛屋条及び日本海上の粟島領し、やがて色部氏称した
 色部氏所領支配は、鎌倉から室町時代通じて大きな変動もなく続けられ戦国時代には国人領主として、北越後に重きをなした。上杉氏による越後一国領国化が進む過程服属関係を結ぶが、守護代長尾氏による「下剋上」に当たっては、上杉方に付きその結果長尾方の中条氏らに攻められ永正5年(1508)5月平林城陥落し色部氏長尾方に降服した長尾氏主家上杉氏名跡襲った後は、色部氏重臣として遇されきたが、慶長3年(1598)、上杉景勝会津転封されるに及んで色部氏米沢1万石を与えられ本領離れて金山城入り平林城廃城となった
 平林城遺構は、標高281メートル要害山古名加護山)とその西北麓にみられる館跡平野面する西側大手とし、大別して3郭に分かれる西南の最も大きな郭は「岩館」と通称され、東西長い長方形で、北西隅に虎口開き、その東には続く1郭があり、さらに東に「殿堀」と呼ばれる空堀がある。昭和49年新潟県教育委員会発掘調査行い、ここに架設され木橋橋脚検出したが、この渡った東には「殿屋敷」とよばれる館の最も主要な郭が存在する館跡最奥部に当たる。
 詰城置かれ要害山は、館跡から山頂まで1.7キロあり、途中水場や「物見山」、「のろし山」等の要所がある。山頂2段に削平され、東側尾根には2か所の堀切認められる
 これらの遺構は、極めて良好に保存されており、鎌倉時代地頭居館起源とする城館遺跡として中世史理解する上に好個資料提供するのである
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