ごしらかわ‐てんのう〔ゴしらかはテンワウ〕【後白河天皇】
後白河天皇
後白河天皇
在位1155年から1158年と短いが、院政が1158年から1179年及び1181年から1192年の長きにおよぶ。
父の鳥羽法皇と同母兄の崇徳上皇は、摂関家藤原氏や平氏・源氏らの武士団を巻き込んで対立を深めていたが、崇徳上皇は、1156年に鳥羽法皇が崩御すると摂関家の藤原頼長、源為義、平忠正らと語らい、後白河天皇から皇位を取り返すべく蜂起した。
しかし、備えをしていた後白河天皇に源義朝や平清盛らが参集し、源義朝の献策により素早く夜襲をかけた(「保元の乱」という)。
これにより藤原頼長は矢に当たり戦死。
崇徳上皇は捕らえられ讃岐国に配流された。
これにより後白河天皇は崇徳上皇の勢力を一掃して権力を掌握した。
1158年に二条天皇に譲位し以後六条・高倉・安徳・後鳥羽の5代にわたり院政を行う。
1159年には、右大将への任官をめぐって藤原信西と藤原信頼とが反目しあい、また、藤原信頼の信任が厚い源義朝と藤原信西の信任が厚い平清盛らがお互いに対立して抗争に発展した(「平治の乱」という)。
この乱で藤原信頼らが敗れて、信頼は斬首され、東国に逃れようとしていた源義朝は捕縛されて殺害された。
源義朝の遺児源頼朝は伊豆に流された。
この乱の後、平清盛を中心とする平氏の権勢は高まった。
1177年には「鹿ケ谷の陰謀」が起き、後白河法皇と平清盛との対立が鮮明になり、1179年に平清盛と対立して後白河法皇は鳥羽殿に幽閉される。
平清盛死後院政を再開した。
剃髪入道して「後白河法皇」となり、造寺・造仏・参詣等を行った。
「梁塵秘抄」を選したことでも知られる。
第77代天皇 | |
天皇名 | 後白河天皇 |
読み方 | ごしらかわてんのう |
名・諱等 | 雅仁親王 |
読み方 | まさひとしんのう |
時代区分 | 古代 |
天皇在位 | 1155年から1158年 |
生年 | 1127 |
没年 | 1192 |
父 | 鳥羽天皇 |
母 | 藤原璋子 |
兄弟 | 顕仁親王・雅仁親王 |
配偶者 | 藤原懿子・平慈子 |
皇子女 | 守仁親王・以仁王 |
即位宮 | 平安京 |
天皇陵 | 法住寺陵 |
所在地 | 京都市東山区三十三間堂廻り町 |
後白河天皇 法住寺陵
(ごしらかわてんのう ほうじゅうじのみささぎ)
- ごしらかわてんのうのページへのリンク