『水曜どうでしょう』のディレクターとして
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「嬉野雅道」の記事における「『水曜どうでしょう』のディレクターとして」の解説
『水曜どうでしょう』の旅企画にカメラマンとして参加することとなったのは、最初の「サイコロ1」を始めるきっかけとなったアン・ルイスの東京でのインタビューについて、アンの所属レコード会社が3人分だけ交通費などの経費を持つことになり、自分が置いていかれそうになって、藤村Dから「あんた(嬉野)が来るんだったらカメラやってもらうよ」といわれた際に「大学時代に自主制作映画を作ったことがあり、デジカムを回すことなら自信があるから任せろ」とカメラ役を買って出たことがきっかけである。その一方で、『どうでしょう』第1回の収録時、本番直前まで家庭用デジタルビデオの説明書を熟読しており、番組公式BBSでも「私は(ビデオ撮影に関して)素人」「(私には、YOSAKOIのような)鬼気迫る映像は撮れない」との発言をしている。 番組内ではカメラ撮影をするため口数が少ないが、カメラを回していないときは会話しており、おしゃべり好きである。大泉に企画がばれないよう、鈴井&藤村、大泉&嬉野のコンビでホテルに泊まることが多く、大泉は「嬉野Dと遅くまでおしゃべりすることが旅の楽しみ」と話している。 レギュラー放送後半になると出演者を撮影せずに風景ばかり撮影することも多くなった。これは、カメラを回したまま寝てしまい出演陣の会話をBGMにただただ車窓からの風景が撮れていた事があり、それを藤村Dが「これおもしろい」「意外とこっちのほうがいい」と多くカットに採用したことがきっかけとなっている。嬉野曰く「風景のなか声がしてくる方が緊張感なく見られる」とのことで、大泉洋も「車のなかでカメラを向けてほしくない、話しにくい」と語っているという。また、撮影では主に、ドラマや映画で用いられる、小津安二郎のロー・ポジションからのアングルを意識しているという。 番組グッズとして彼がロケ中に撮影した写真を収めた写真集を2冊刊行した。特に2003年発売の第2弾では膨大な写真データ(自身がカメラを回さない前枠・後枠(オープニング・エンディング)の撮影時に扮装している出演陣をカメラに収めた素材で、写真約4,500枚相当からまず1,500枚を選び、そこから更に600枚に絞り込んだ)を一枚一枚ネガから取り込んだり、印刷用紙に当時絶版となっていた「ミルトGA」(日清紡)を使うよう要望したりした。これを受けて、当時プロデューサーだった四宮康雅は実際に日清紡にかけあって(生産ロット全量引き取りを前提に)「ミルトGA」を再生産させている。なお、のちに日清紡は製品ラインアップに「ミルトGA」を復活させている(2009年の持株会社制移行、2017年の子会社譲渡に伴い、現在はダイオーペーパープロダクツが「ミルトGA・スピリット」として製造・販売)。 出演者陣の中で最年長であり、番組では「うれしー」、特に藤村Dから「(嬉野)先生」と呼ばれる一方、大泉洋からは「嬉野くん」と呼ばれる。 日本国内のカブ企画では前述のようにオートバイで日本一周したことがある妻がルートを考案したほか、原付ベトナム横断では妻とのツーリングを通じて得た、ニーグリップの技術を鈴井のカブの後ろに乗った際に駆使して撮影し、大泉がそれに驚いていたというエピソードがある。 2007年には、監督の高坂希太郎がどうでしょうファンであることと大泉が主演していることが縁で、OVA『茄子 スーツケースの渡り鳥』に藤村とともに声優として出演した。 2011年放送の「原付日本列島制覇」では、自身が病み上がりということもあって、デジカムの撮影は別のスタッフ(四国R-14や『ミエルヒ』のカメラも担当した鈴木武司)が行い、自身はフィルムカメラの撮影に徹し、会話もいつも以上に参加した。また「ヒラ・ディレクター」の表記はDVDで行われたのが最初で、対談本『腹を割って話した』において本人の希望により藤村に内緒で追加した、と明かしている)。 2016年に放送を開始した、onちゃんが道内各地を旅するHTBの小番組「巷のonちゃん」の題字及びナレーションを担当。 HTBのホームページ内において、藤村忠寿とのファンコミュニティ「藤やんとうれしー」が開設されている。
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