『歌行燈』前後とは? わかりやすく解説

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『歌行燈』前後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 22:44 UTC 版)

泉鏡花」の記事における「『歌行燈』前後」の解説

1902年明治35年)、胃腸病のため逗子静養吉田賢龍紹介によって知った芸妓伊藤すず台所手伝いにくる。翌1903年明治36年1月2人牛込神楽坂転居し同棲始める。4月同棲紅葉知られ叱責を受け別離するが、秘密裏交際続けていた。10月30日にはその紅葉急逝し衝撃を受ける鏡花硯友社同人とともに紅葉の葬儀取り仕切った11月、『国民新聞』に『風流線』を連載し始める。1904年明治37年)、『紅雪録』正続1905年明治38年)は2月20日祖母失い7月には自身胃腸悪化のため3年前にも静養し逗子転居した。一方で執筆意欲止まらず銀短冊』(文芸倶楽部)や『瓔珞品』(新小説)を連載1906年明治39年)、『春昼』(同前発表。翌1907年明治40年1月やまと新聞において『婦系図』の連載開始1908年明治41年)、『草迷宮』を春陽堂より刊行1909年明治42年)、2月逗子から麹町土手三番町)に転居東京に戻る。『白鷺』を発表東京朝日新聞)。1910年明治43年)、『歌行燈』(新小説)、『三味線堀』(三田文学)。『三味線堀掲載にあたって鏡花評価していた永井荷風好意を受ける。この年から『袖珍本鏡花集』(五巻)の発行始まり、すでにその文名確立し人気作家1人となっていた。5月には終生住まいとなった麹町六番町転居1911年明治44年)、『銀鈴集』を隆文館より刊行1912年大正元年)、『三人の盲の話』(中央公論)、1913年大正2年)、『印度更紗』(同前)。大正期には戯曲にも志を持ち、『夜叉ヶ池』(演芸倶楽部)、『海神別荘』(中央公論)を発表1914年大正3年)、『日本橋』を千章館より刊行し、ここで初め装画小村雪岱とのコンビを組む1915年大正4年)、『夕顔』(三田文学)。『鏡花選集』と『遊里集』を春陽堂より刊行1916年大正5年)、『内証話』。1917年大正6年)、『天守物語』(新小説)。1919年大正8年)、『由縁の女』を『婦人画報』に連載開始1920年大正9年1月、『伯爵の釵』(『婦女界』)。このころ映画興味持ち谷崎潤一郎芥川龍之介知り合う1922年大正11年)、『身延』を東京日日新聞連載開始同年、『露宿』『十六夜』。1923年関東大震災被災すずとともに2日間、四谷見附付近公園過ごした1924年大正13年)、『眉かくしの霊』(苦楽)。

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