『平家物語』における重衡
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重衡は時子の産んだ子としては3番目の男子であり、武門の家では嫡男とそうでないものの立場は大きく異なるため、本来ならば重衡はさほど注目される存在ではなかった。同じような立場の清盛の弟である経盛、教盛、頼盛、忠度らがほとんど役割がないのに対し、重衡の扱いは突出している。 平徳子が安徳天皇を出産した際には、重衡は中宮亮として、徳子の出産を皆に伝える晴々しい役割を担っている。さらに以仁王が挙兵した際には、総大将として三井寺や興福寺、般若寺といった奈良の寺を攻めていたり、一ノ谷の戦いで捕虜となった後は、捕らえられた重衡のことを、都の人々が清盛にとっても時子にとっても「おぼえの御子」で「重き」存在であったと噂しているシーンがある。さらに巻第十では、半分近くが重衡について語られており、巻第十一で亡くなるまで、かなり注目されている。 『平家物語』覚一本巻第十「内裏女房」によれば、生捕りになった後、囚われの身の重衡のところに、かつて仕えていた侍の知時が訪れ、実平の許しを得て一晩無聊を慰める機会があったという。重衡は思いがけないことに喜びの涙を流し、知時と昔話に耽る。話がかつて交際のあった内裏で働く女房のことになり、重衡は知時に手紙を届けてほしいと述べる。内裏にやってきた知時が声をかけると、女房は日頃の慎みも忘れ、自ら端近まで出て手紙を受け取った。知時は重衡のもとに帰り、女房が罪人重衡のことを思っているのを知った重衡は、牛車を遣わして、束の間会うことになった。和歌を交わし、短い時間ながらも会うことのできた女房は、重衡の死後に、出家して重衡の菩提を弔い続けたという。この話は、内裏で働く身分のある貴族の女性が、戦場で血を浴びて穢れたばかりでなく、多くの罪もない人や大仏を焼いてしまった重衡に、未だに愛情を持っている姿を描くことで、重衡が真の悪人ではなく、運と仏に見放された気の毒な貴人と印象づけている。 重衡は東大寺を焼いてしまい、隠れていた女子供や老僧を何千人も焼死させたばかりか、大仏の首が焼け落ちるという事態を引き起こし、捕虜となった後には、都の中を罪人として引き回され、鎌倉へ移送されて源頼朝と対面し、最期は奈良の僧兵に引き渡されて首を晒されている。これを基に人物像を作れば、大悪人として書くことは容易であり、勧善懲悪の観点からも非常に描きやすいのにも関わらず、多くの章を割いて、多くの人に愛される存在として描かれている。これは「誰が見てもはっとするほど美しい甥の維盛」と対比的に描こうと『平家物語』作者の意図であり、重衡と同時代に生きた人々の証言に見える、清盛の息子という高い地位や立場を自ら気さくに破って、女性たちに気軽に声をかける姿と重なっている。
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