『平家物語』における最期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/24 14:49 UTC 版)
「樋口兼光」の記事における「『平家物語』における最期」の解説
以下に『平家物語』巻第九「樋口被斬」における兼光の最期の様子を記す。 樋口は源行家を紀伊国名草に向かっていたが、都に戦ありと聞いて取って返したところ、大渡の橋で弟の今井兼平の下人に会い、木曾義仲も今井兼平も既にこの世にないことを知った。樋口は涙を流し、「これを聞きたまえ方々、主君に志を思い参らす人々は、これより早くいづこへも落ち行き、いかような仏道修行をもして、主君の菩提を弔いたまえ。兼光は都へ上り討ち死にし、冥途でも主君に面謁し、今井をももう一度みたいと思うためである」と述べて都へ上った。鳥羽離宮の南の門を過ぎるときに、その勢はわずか二十余騎になっていた。その後、何とか命ばかりは助けようと考える児玉党の説得に応じ、児玉党に降った。源範頼と義経は院に伺いをたてたところ、院中の公卿、局の女房、女童までも「木曾が法性寺を焼き滅ぼし、多くの高僧が亡くなったのは今井と樋口によるものであり、これを助けることは口惜しい」と述べたため死罪が決まった。兼光は死罪打ち首になる際は義仲の隣に首を置いて欲しいと頼み義仲と他五人の首が大路を渡される際、供をつとめることを頻りに申し出、藍摺の直垂と立烏帽子の姿で従い、その次の日に斬られた。
※この「『平家物語』における最期」の解説は、「樋口兼光」の解説の一部です。
「『平家物語』における最期」を含む「樋口兼光」の記事については、「樋口兼光」の概要を参照ください。
- 『平家物語』における最期のページへのリンク