「牧」と「武士」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 02:10 UTC 版)
平安時代の武士の必要条件が騎馬と射技であった。武士は先を争ってその中でも大きくて体力のある良馬を求めたが、馬の中のごく一部がそれに堪えられたとすれば、武士という一握りの特種技能集団が成立し得る条件を備えているのは、関東においてはそもそもが馬の牧場を意味する「牧」であった。10世紀始めの「延喜式」には全国の牧が定められているが、牧は信濃国、上野国、武蔵国に集中している。なお、最大の産地は奥州であった。 朝廷の武官は左右近衛、兵衛、衛門の六衛府を代表とするが、馬寮も武官の一部を構成し、信濃、関東に多くあった「牧」はその馬寮とつながっていた。馬寮の所轄は「御牧(勅旨牧)」で、「官牧」と呼ばれる「諸国牧」は兵部省の管轄であったが、そこから献上された馬の管理は馬寮であり、馬寮は直属の牧の他、畿内の官牧に管理を委託していた。 実際、関東の有力武士団は、朝廷の馬の放牧地「牧」の管理人が多かった。平将門も長洲と大結馬牧の二つの官牧を地盤としていた。武蔵介源経基が将門の行動を謀反と京へ報告したとき、武蔵国の群盗追捕に動員されたのは、小野牧別当小野諸興、石田・阿久原牧も併せた秩父牧別当藤原惟条であった。これらの牧からは、後に武蔵七党と呼ばれる武士団が起こった。 頼朝の有力御家人、藤原秀郷流の直系を名乗る小山氏も同じである。また後で登場する千葉氏も名馬の保有で有名であり、『平家物語』の中で平山季重が自分の馬は千葉氏から手に入れたものだと自慢したり、鎌倉時代初期に源頼朝周辺に何度も献馬したりするなど、良質な「牧」を管理しているというイメージがあったようである。このように、関東における武士の発生は、馬の生産地を背景にしていた考えることができる。 それでは、京の周辺ではどうだったかといえば、白河院の時代の北面武士のを代表する源季範、源季実、源近康ら文徳源氏は、摂関家領河内国古志郡坂門牧を本拠とし、坂戸源氏とも呼ばれた。また、源頼信の郎党・藤原則経は、主人の命令によって河内国坂門御牧の住人・藤原公則の養子になったとある。この時代に「住人」というのはその地の開発領主の意味である。また、「御牧」とあるので、坂門牧には朝廷の御牧と摂関家の牧が隣接していたか、両方を兼ねていたのかも知れない。いずれにしても、「牧」と「武者・武士」の関係をここにも見ることが出来る。 源義家の凋落後、「朝家の爪牙」の第一人者となった平正盛は、近国(かつ大国・熟国)の国守を務めると同時に右馬権頭であった。また、その子平忠盛は白河院の御厩別当となり、白河院の御牧と、そこを拠点とする武士団を統括した。御厩別当は放牧地の総括管理者であるだけでなく、行幸に際しては、「車後(くるまじり)」「後騎」といって、院の牛車の後ろを検非違使とともに騎馬で警護に当たる地位でもあった。 その後、御厩別当は院庁における軍事貴族筆頭のポストとみなされるようになり、平清盛にも引き継がれた。「牧」が「武者=騎馬武者」の拠点であり、優良な「牧」のほとんどが官牧・御牧であった時、院庁の御厩別当は、多くの武士団を公的に支配下に置き、更には私的にも従属させてゆく重要なポストであった。
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