「牧野教育映画製作所」の発足
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「牧野教育映画製作所」の記事における「「牧野教育映画製作所」の発足」の解説
ふたたび「興行映画の製作をしない」ことを条件に日活を退社したマキノ省三は、1921年(大正10年)6月、京都市北区・衣笠山の麓の等持院境内に同社を設立。 同年9月、同所に「等持院撮影所」を建設・開業した。牧野の助監督の金森万象、日活京都の監督だった沼田紅緑もこれに参加する。ミカド時代から引き続き、文部省の星野辰男(保篠龍緒)と権田保之助が協力した。牧野省三42歳のときであった。 ちょうど同月、トーマス・栗原と谷崎潤一郎が横浜山下町で映画を製作していた「大正活動映画」(大活)が撮影所を一時閉鎖すると、俳優部にいた井上金太郎と内田吐夢、二川文太郎、渡辺篤、江川宇礼雄、岡田時彦、鈴木すみ子は、「浅草オペラ」の劇団を渡り歩き「根岸大歌劇団」を飛び出て大活で俳優・監督となった獏与太平(のちの古海卓二)とその妻紅沢葉子に率いられて京都入り、岡田と鈴木を除いて全員がこの「等持院撮影所」に入社する。牧野は、栗原のハリウッド・スタイルと谷崎の当時の最先端文学、獏の浅草六区の芸術的自由を全身にまとった、この20代の横浜から来た若者たちを歓迎し、彼らを主役に、そしてまだ10歳そこそこの息子マキノ雅弘らを出演させて、「教育映画」を製作、発表し始めた。 翌1922年(大正11年)、牧野は映画にまだ出演したことのない無名の歌舞伎役者を集め、長篇劇映画『実録忠臣蔵』を撮り、文部省の「推薦映画」のお墨付きを受け、興行会社になっていた大活がこれを配給して同年5月27日に公開、大ヒットした。同作はいままでにない斬新な演出手法と評判になり、なにより谷崎が、日活時代の尾上松之助映画との比較で格段に「映画的」だと絶賛、日活・横田永之助の桎梏から脱出、完全独立するための大きなステップとなった。
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