「牧野教育映画製作所」の発足とは? わかりやすく解説

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「牧野教育映画製作所」の発足

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/11/23 03:16 UTC 版)

牧野教育映画製作所」の記事における「「牧野教育映画製作所」の発足」の解説

ふたたび「興行映画の製作をしない」ことを条件日活退社したマキノ省三は、1921年大正10年6月京都市北区衣笠山の麓の等持院境内同社設立同年9月同所に「等持院撮影所」を建設開業した牧野助監督金森万象日活京都監督だった沼田紅緑もこれに参加するミカド時代から引き続き文部省星野辰男保篠龍緒)と権田保之助協力した牧野省三42歳のときであった。 ちょうど同月トーマス・栗原谷崎潤一郎横浜山下町映画製作していた「大正活動映画」(大活)が撮影所一時閉鎖すると、俳優部にいた井上金太郎内田吐夢二川文太郎渡辺篤江川宇礼雄岡田時彦鈴木すみ子は、「浅草オペラ」の劇団渡り歩き根岸大歌劇団」を飛び出て大活俳優監督となった獏与太平(のちの古海卓二)とその妻紅沢葉子率いられ京都入り岡田鈴木除いて全員がこの「等持院撮影所」に入社する牧野は、栗原ハリウッド・スタイル谷崎当時最先端文学浅草六区芸術的自由を全身まとった、この20代横浜から来た若者たち歓迎し、彼らを主役に、そしてまだ10歳そこそこ息子マキノ雅弘らを出演させて、「教育映画」を製作、発表し始めた。 翌1922年大正11年)、牧野映画にまだ出演したことのない無名歌舞伎役者集め長篇劇映画実録忠臣蔵』を撮り文部省の「推薦映画」のお墨付きを受け、興行会社になっていた大活がこれを配給し同年5月27日公開大ヒットした。同作いままでにない斬新な演出手法評判になり、なにより谷崎が、日活時代尾上松之助映画との比較格段に映画的」だと絶賛日活横田永之助桎梏から脱出、完全独立するための大きなステップとなった

※この「「牧野教育映画製作所」の発足」の解説は、「牧野教育映画製作所」の解説の一部です。
「「牧野教育映画製作所」の発足」を含む「牧野教育映画製作所」の記事については、「牧野教育映画製作所」の概要を参照ください。

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