「太田昭和」の系譜
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「EY新日本有限責任監査法人」の記事における「「太田昭和」の系譜」の解説
新日本監査法人の直接の前身は太田昭和監査法人であり、今でも「太田昭和」の名で馴染んでいる人も多い著名な監査法人である。太田昭和の「太田」側の母体を築いた太田哲三は、一橋大学名誉教授で会計学者として名を馳せた人物であり、大学退職後に公認会計士資格を取得し、初代日本公認会計士協会会長に就任。当時まだ日本に根付いていなかったアメリカ合衆国の公認会計士制度の普及を図り、現在の会計監査システムの基礎を作り上げた。業界内では会計学の礎ともされており、山陽特殊製鋼倒産事件を機に組織的監査の必要性が唱えられると、1967年(昭和42年)1月19日には監査法人第一号として監査法人太田哲三事務所を設立している。設立当初の規模は社員8名・公認会計士有資格者12名であった。その翌年には等松・青木監査法人や監査法人中央会計事務所といった全国規模の監査法人が設立されているが、太田哲三事務所も同年11月に全国規模の法人とするため拡充を行っており、設立3年後の1970年(昭和45年)3月末には社員36名・使用人88名・クライアント数106社の法人となっている(なお、クライアント数の順位は中央・朝日・等松青木・昭和に次ぎ5番目であった)。海外提携先は当時「Big8」と呼ばれていた会計事務所の一角、アーンスト・アンド・ウィニーであり、日本に直接進出せず提携方式をとり太田哲三事務所へ部門吸収されている。 一方、太田昭和の「昭和」側である昭和監査法人は富島一夫によって1969年(昭和44年)に設立された法人であるが、前身法人である監査法人富島会計事務所を解散し新たな参加者を加えて再設立したものであり、実質的には全国で3番目の設立である。1970年(昭和45年)3月末時点で社員24名・使用人59名・クライアント数112社と当初より大手監査法人の一員であり、海外提携先は「Big8」の一角、ピート・マーウィック・ミッチェルであった。 太田と昭和の両者は、旧公社民営化に端を発する1980年代半ばの監査法人再編の動きのなか合併を決めた。朝日新和に次ぐ2例目の大型合併となり、とりわけ大手法人同士の合併は初となった。合併時の規模は総人員数1,269名、顧客数1,260社で当時国内最大であったが、翌年の等松・青木監査法人と監査法人サンワ事務所の合併によって間もなく国内最大の地位を明け渡すことになる。なお太田と昭和は前述の通り異なる海外事務所と提携していたが、両者ともに提携関係を維持する方針とした。この二重提携は2003年(平成15年)まで続くこととなる。 1989年(平成元年)にはメインの提携先であったアーンスト・アンド・ウィニーがBig8の一角であったアーサー・ヤングを救済合併し、アーンスト・アンド・ヤング(EY)となった。立場の弱い側に追いやられたアーサー・ヤングと提携していた大手の監査法人朝日新和会計社はこの合併の影響で国際業務に著しい不利益を被ることとなったため、打開策として太田昭和と朝日新和の合併が水面下で検討された。当時朝日新和は約290社・太田昭和は約260社の上場企業をクライアントとしており、両者が合併すると当時最大規模であった中央新光監査法人の約1.6倍の規模となる見込みであった。しかし許認可権を持つ大蔵省(当時)は監査業界の寡占化に難色を示しこれを承認せず、1991年(平成3年)に断念へと至った。結局、朝日新和は1993年(平成5年)アーンスト・アンド・ヤングとの提携を解消し、アーサー・アンダーセンと新たに提携することとなった。
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