「変格派探偵小説家」として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/18 20:49 UTC 版)
「大下宇陀児」の記事における「「変格派探偵小説家」として」の解説
宇陀児は「もっとも影響を受けた外国作品」としては、『何処へ行く』、『じゃん・ばるじゃん』、『厳窟王』を挙げ、「高校の終わりごろにドイルが面白くなり、大学を出るころからルパン物になった」と語っている。戦前の作家・翻訳家による海外推理小説十傑選考では、宇陀児は第1に『妖女ドレッテ』、第2に『男の顔』、第3に『トレント最後の事件』、第4に『赤毛のレッドメーンズ』を挙げ、以後「ルパン物」、「ルレタビーユ物」、「ヴァンス物」、「ホームズ物」としていて、「本当は『妖女ドレッテ』よりルパンやルレタビーユのほうが面白かった」とも述べている。のちに「完璧な探偵小説」として挙げたのはカーの『皇帝の嗅ぎ煙草入れ』とクロフツの『クロイドン発十二時三十分』であり、「変格もの」の心理物や倒叙物だった。 このような嗜好の宇陀児は、探偵小説文壇で「一個の人間像を描く」という「ロマンチック・リアリズム」を提唱し続けた。これに基づいて昭和12年には『鉄の舌』を執筆。戦後さらにその実践に努め、昭和23年に連載を始めた『石の下の記録』は、推理小説であるとともに戦後風俗小説ともなっていた。この作品は木々高太郎から絶賛を受けた一方、江戸川乱歩からは、「探偵的興味を犠牲にした風俗小説では不満である」と批判された。宇陀児は『虚像』でも人間と事件を有機的に結びつけるべく、風俗小説手法をとり、トリックの手法を捨てている。宇陀児は「トリック再用論」を唱え、トリックの独創性にこだわらなかったほどだった。 大正15年、甲賀三郎は「純粋に謎解きの面白さを追求する」という意味で「本格」という言葉を使い始め、この「本格」でない探偵小説はこれも甲賀によって「変格」と呼ばれるようになった。日本探偵小説の始祖である乱歩は終生「本格探偵小説」を支持したが、大衆の要求はあくまで「変格」にあり、乱歩も不本意ながら「変格派」の代表となるに到った。そして大下宇陀児もこの「変格派」の探偵小説家の一人だった。 宇陀児は処女作『金口の巻煙草』を、「会話入りの作文」と評している。これは宇陀児の一高時代の事実譚に基づいたもので、当時の高校生の生活を写し出すことを主眼にしたといい、「加えてちょっとした犯罪と、ほんのちょっとした結末の意外性があったため、それは探偵小説とされ、私は探偵作家というレッテルをおされた」と語っている。 以後、宇陀児は「変格派」の探偵小説家と称されるが、「本格」志向でなかったことについて、「いわゆる探偵小説での最重要な素材を、私はそれほど重視しなかった」といい、「このことは探偵小説の本流に対しての不逞であったろう」と振り返っている。続いて「不逞なるが故に、探偵小説本流家の一部からは、常に反感を持たれ、時には迫害すらあった」としているが、これは昭和6年に始まる、甲賀三郎との「本格」と「変格」の是非を問う大論争を指している。 これに対し宇陀児は「私の道を歩くよりほかはなかった。その道が、私にいちばん歩き甲斐のある道だったからである」とし、力を入れて書いたものは「人間の嬉しさや悲しさ」だとしている。宇陀児は「語りたくなり、叫びたくなり、訴えたくなる」が、書けという要求はそんなものについてではなく、「探偵小説の基材を駆使しての小説」という要求であり、「板ばさみで私は基材を組み合わせ、その中へ、私の語りたいものを、ぶきっちょに挟みこむよりほかなかった」のだという。 宇陀児は自作品について、トリックや意外性や謎がないことはないが、そういうものを特に強く浮き上がらせることを、時にむしろ恥ずかしくさえ思ったと語り、「一面、恥ずかしく思うことを、私は自分のよりどころとする、小さな誇りともしたのである」と語っている。 俵巌(ときに岩男とも表記される)という名の弁護士をシリーズ・キャラクターとして擁し、戦前の『狂楽師』や戦後の『見たのは誰だ』ほかいくつかの長短篇で活躍させている。
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