「マイアミ・ヘラルド」
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「マージョリー・ストーンマン・ダグラス」の記事における「「マイアミ・ヘラルド」」の解説
マージョリーは南フロリダに到着した。このときマイアミは国勢調査で人口5,000人足らずであり、「鉄道の終点という以外のなにものでもない」状態だった。父のフランク・ストーンマンは後に「マイアミ・ヘラルド」と呼ばれることになる新聞の初代出版者だった。父はフロリダ州知事ナポレオン・ボナパルト・ブロワードその人と、ブロワードがエバーグレーズから排水しようとしていることに懸命に反対していた。ブロワードを大いに怒らせることになったので、ストーンマンが連邦裁判所巡回判事に当選したときに、ブロワード知事がその選挙結果の証明を拒んだ。父はその後一度も判事の任務を遂行することもなかったのに、その残りの生涯では「判事」と呼ばれていた。 マージョリーは1915年に新聞社のスタッフとして加わり、当初はティーパーティや社会の出来事に関して社会コラムを書いていたが、ニュースがあまりに遅いものであり、後にその話の幾つかを創り上げているのを認め、「誰かが『貴方のコラムに登場するそのT・Y・ウォシュラグ夫人とは誰なの?』と言うだろうし、私は『おわかりかしら、彼女はここにそんなに長く居るとは思わないわ』と言うでしょう」と書いていた。マージョリーがマイアミに移って来てから1年も経たないうちに、父が休暇を取った時、父は彼女に論説のページを任せた。この時のライバル紙は「マイアミ・メトロポリス」であり、マイアミの歴史に大いに詳しい人が編集者だった。それが彼女にとって書くことが楽しくなる原因になった。マージョリーの父は彼女を叱って、事実をもっと良くチェックするように言った。 1916年、マージョリーはマイアミからアメリカ海軍予備役隊に初めて参加する女性について、物語を書くよう割り当てられた。その女性が会見に現れなかったとき、マージョリーは自身で海軍にヨーマン(F)第一等として参加することにした。それは彼女に合わなかった。早起きが嫌いであり、上官は彼女がタイピストとしてその文法を正すのを好まなかったので、退役を要請して、アメリカ赤十字社に加わり、パリ駐在となった。休戦が調印されたときのル・ド・リボリにおける騒がしい儀式に立ち会い、戦争難民の世話をした。彼らが退去させられるのを見てショックを受け、「マイアミで60年後に、難民の苦しさを理解させてほしい」と記した。 第一次世界大戦後、マージョリーは「マイアミ・ヘラルド」の編集者補に就いた。「ザ・ガレー」(ゲラ刷り)と題した毎日のコラムで幾らかの名声を得て、新聞を通じた影響力を持つようになったので、地元ではある程度の著名人になった。熱心な読者を集め、毎日のコラムを詩で始める試みを行った。「ザ・ガレー」は時宜を得ており、彼女が好む方向に進んだ。マイアミ市が10年間で10万人単位で人を集める人口ブームとなったとき、責任能力のある都市計画を提唱した。女性参政権、公民権、衛生状態の改善を支持する記事を書き、一方で禁酒法や外国貿易関税に反対する記事を書いた。 マージョリーが書いた物語の幾つかは地域の富について「避けがたい開発」であると語り、南フロリダの開発を称賛する広告コピーを書くことで、週100ドルの収入を増やしたが、それは彼女の人生後半で後悔させられることになった。1920年代には『ノースダコタ州のマーティン・テイバートが今フロリダを歩いている』と題する、労働キャンプで殴られて死亡する22歳の浮浪者の死を嘆くバラッドを書いた。これは「マイアミ・ヘラルド」に掲載され、フロリダ州議会の会期中に読み上げられ、それが囚人貸出制度を禁じる法になった。その法の成立にはマージョリーの書いたものが大きく寄与したとされる。マージョリーはその自叙伝の中で「私が書いたことの結果として成し遂げることのできた、単一の最も重要な事項と考える」と記していた。
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