「ポートランド」艦長
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「ローレンス・T・デュボース」の記事における「「ポートランド」艦長」の解説
真珠湾攻撃後の1942年5月、デュボースは大佐に昇進して重巡洋艦「ポートランド」艦長となる。当時「ポートランド」はトーマス・C・キンケイド少将(アナポリス1908年組)率いる攻撃部隊に属し、日本軍が5月4日から8日にかけて行ったポートモレスビー攻略に伴う珊瑚海海戦に参加した。この戦いで空母「レキシントン」 (USS Lexington, CV-2) が失われ、「ポートランド」は「レキシントン」の生存者722名を救出した。続くミッドウェー海戦ではフランク・J・フレッチャー少将(アナポリス1906年組)率いる第17任務部隊に所属し、空母の護衛任務を担当した。「ポートランド」艦長時代初期のデュボースは、乗組員から「甘いP」 (Sweet ‘P.') というニックネームを授けられていた。しかし、デュボースに率いられた「ポートランド」は、やがて「甘い」どころか激烈な戦場に飛び込んでいくこととなる。 「ポートランド」は8月7日から9日にはソロモン諸島のガダルカナル島、ツラギ島に上陸する海兵隊の支援を行い、以降もその後同海域に留まり連合軍の補給線の防衛任務に従事。8月23日から25日にかけて行われた第二次ソロモン海戦参加ののち一旦後退し、部隊に再合流するためギルバート諸島近海を通過中の10月15日にタラワを艦砲射撃し、測量艦「筑紫」や特設巡洋艦「浮島丸」(大阪商船、4,730トン)などを大いに狼狽させた。10月26日、27日の南太平洋海戦において「ポートランド」は空母「エンタープライズ」 (USS Enterprise, CV-6) の護衛を担当。海戦でデュボースは「ポートランド」を巧みに操って「エンタープライズ」を守りきり、その戦功が評価されてデュボースに1回目の海軍十字章が授けられた。 間を置かず、「ポートランド」はダニエル・J・キャラハン少将の第67.4任務群に加わって、ガダルカナル島行の輸送船団の護衛を行う。南太平洋軍司令官ウィリアム・ハルゼー中将(アナポリス1904年組)は、輸送任務が終われば任務群は即座に退避するよう命じていたが、ニュージョージア海峡を南下する阿部弘毅少将率いる日本艦隊の接近が報じられたため、キャラハンは決然として日本艦隊に立ち向かうこととなった。11月12日深夜からの第三次ソロモン海戦では、「ポートランド」はキャラハンの旗艦である「サンフランシスコ」 (USS San Francisco, CA-38) の後ろにあり、日本艦隊の戦艦「比叡」と「霧島」に応戦したが、間を置かず駆逐艦「夕立」からの魚雷が「ポートランド」の右舷後部に直撃。「ポートランド」はスクリューを損傷して操舵が困難となり、3番砲塔も損傷し砲塔は旋回不能となった。艦は旋回を余儀なくされたが、生き残っていた砲塔で「比叡」に対して砲撃を行った。朝になり、いまだ旋回を続けていた「ポートランド」は、すでに他の艦艇の攻撃で廃墟となっていた「夕立」に対して砲撃を行い、これを撃ち沈めて復讐を果たした。「ポートランド」は大きな損傷を蒙ったものの生き残り、修理のため後送された。デュボースの「不屈の闘志」と「勇敢で献身的」な行為は高く評価され、2度目の海軍十字章に代わる金星章が授与された。「ポートランド」はメア・アイランド海軍造船所で修理とオーバーホールに入り、その間にデュボースは少将に昇進して「ポートランド」に別れを告げた。
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