「ベルリン大空輸」開始
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「ベルリン封鎖」の記事における「「ベルリン大空輸」開始」の解説
ソ連による完全封鎖の開始後、西ベルリンでは燃料や食糧だけでなく、石鹸やトイレットペーパーなどの生活用品や、薬品までが短期間で欠乏し、市民生活が危機に陥ることが予想された。そこでアメリカやイギリスを中心とする西側は、アメリカ空軍のカーチス・ルメイ戦略空軍司令官らが立案した物資の空輸作戦を実施することにした。アメリカの空輸作戦の名前は「糧食作戦」(オペレーション・ヴィットルズ Operation Vittles)とされた。一方イギリスの空輸作戦は「プレインフェア作戦」(Operation Plainfare) とされたが、イギリスの空輸部隊もアメリカ側の指揮の下で活動した。一般には「ベルリン大空輸」(Berlin Airlift) として知られる。 6月26日、ヴィースバーデンとラインマインの両基地からダグラスC-47輸送機が45 tの物資をテンペルホーフ空港に輸送し、空輸作戦が開始された。C-47輸送機は100機以上がかき集められ、ベルリンまでの輸送任務に就いた。C-47より大型のダグラスC-54輸送機もアメリカ本土などから派遣された。イギリスはC-47と同型のダグラスダコタやアブロ ヨークなどを派遣した。7月に入ると、アメリカ空軍の軍航空輸送隊(MATS: Military Air Transport Service、後に軍事空輸軍団を経て航空機動軍団)のウィリアム・タナー少将 (William H. Tunner) が臨時空輸任務群(Airlift Task Force, Provisional、11月に第1空輸任務群 1st Airlift Task Forceに改編)の司令官に就任し、空輸作戦の指揮を執った 6月30日にアメリカのマーシャル国務長官が「我々はベルリンを放棄するつもりはない。市民への食料、物資の補給は可能な限り実施されるだろう」と言明し、米英は西ベルリンを放棄せず、空輸作戦により市民生活を断固として支える決意を示した。 西ベルリンの市民が必要とする食料は1日あたり、小麦および小麦粉646 t、穀類125 t、肉・魚介類109 t、油脂類64 t、乾燥ポテト180 t、乾燥野菜144 t、砂糖85 t、コーヒー11 t、粉乳24 t、イースト3 t、塩38 t、チーズ10 tの合計約1,439 tと見積もられた。また、このほかに市内で消費する燃料の石炭やその他の生活必需品などが1日あたり約3,000 t必要であると見積もり、空輸の最低量は1日4,500 tと設定された。これを満たすために、C-54輸送機が続々と追加派遣され、ベルリン大空輸の主力となった。 空輸作戦に使用された航空機はC-54が中心となり、搭載量の少ないC-47は早期に撤退した。他にC-74・C-82・YC-97Aなどの大型の輸送機が少数のみ試験的に投入された。機数が少なかったためこれらの大型航空機は主力とはならなかったが、以降の輸送機の発展の方向性を示すことになった。 このほかにもイギリスが民間の航空会社からチャーターした輸送機を派遣したことから、アブロ ランカストリアン、ハンドレページ ホールトン、ショート ヒース、ビッカース ヴァイキングなどの雑多な輸送機が作戦に投入された。大量の物資を運ぶこれらの輸送機は、ベルリン市民から「ロジーネン・ボンバー」のニックネームで呼ばれた。 ベルリン大空輸に際しては、英米のほかにフランスも当初参加していた。しかしフランスは戦勝国とはいえ大戦中には長くドイツの占領を受けて、地上戦の被害も大きく、国自体が復興の途上にあった。このため輸送機の数を確保できなかったことやその参加機も事故で失われたことなどから、早期に作戦から外れた。これ以外にイギリス連邦のオーストラリアとニュージーランド、南アフリカが乗務員を派遣している。
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