陸軍航空本部
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陸軍航空本部
航空兵科独立と昇格
1925年(大正14年)5月1日、それまで各兵科の混成[* 13]であった陸軍の航空部門は航空兵科として独立し[36][37][38]、同時に陸軍航空本部令(勅令第149号)が施行された[39]。従来の陸軍航空部令は廃止となり、陸軍航空部は陸軍航空本部(以下、場合により航空本部と略)に昇格した。陸軍航空本部令第1条で定められたその任務は陸軍航空部の任務とほぼ同じであるが、航空に関する事項の「試験」が加わり、航空に関する器材の「製造」が職責からなくなった。
陸軍航空本部は本部と補給部のみであった従前の航空部とは本質的な機能に大差はなかったが、編制が総務部、技術部、補給部、検査部となり、大幅に増強され定員も51名から139名となった[40]。陸軍大臣に隷属し航空本部のすべての業務を統御、管理する本部長は安満欽一中将が航空部から引き続きその職についた。また航空本部長は陸軍飛行学校[* 14]を隷下に置くだけでなく、陸軍士官学校を巡閲する権限が付与された。これは航空兵科の独立にともない、他兵科が教育総監の隷下に騎兵監、砲兵監、工兵監、輜重兵監を有することに準じて航空本部長に与えられた職権である。
同年5月4日、陸軍航空本部事務分掌規定(陸達第23号)により、航空本部における各部の任務は次の事項を掌ると定められた(1925年5月時点)[41]。
- 総務部
- 航空に関する事項(被服に関する事項および他部主管事項を除く)の調査、研究、立案。
- 航空兵諸軍隊[* 15]の本科専門教育、ならびに航空兵諸軍隊練習部における教育に関する事項。
- 陸軍飛行学校に関する事項。
- 庶務および経理に関する事項。
- 技術部
- 航空に関する器材の調査、研究、試験、立案、審査。
- 航空に関する気象および衛生の調査、研究、試験、立案。
- 航空に関する器材制式の統一および同制式図の調製整理に関する事項。
- 補給部
- 航空に関する器材の修理および廃品処分に関する事項、および技術部の依託にかかわる器材の試作。
- 航空に関する器材の購買、貯蔵、または補給に関する事項。
- 検査部
- 航空に関する器材の採用検査に関する事項。
- 民間製造所に注文した航空に関する器材の製造ならびに修理作業の監督に関する事項。
技術部は1919年(大正8年)の陸軍航空学校設立時に同校の研究部として始まり、1924年(大正13年)の改編で所沢陸軍飛行学校となって以後も引き継がれてきた陸軍航空唯一の研究機関が前身である。学校の機構内の研究部のため設備および経費等が十分でなく、深厚な調査研究を行うことが困難であったものを、そのまま航空本部の部署に独立昇格させた[42]。設備の関係から技術部は当面の所在地を所沢校内のままとして活動を開始した[43]。補給部はそれまでどおり補給部所沢支部と補給部各務原支部を置いた。そのほか航空本部の設立にともない、その編制内に航空駐在官を置くことができるようになった。航空駐在官は独、仏、英、米の4国で駐在国およびその周辺国の軍用航空技術、編制装備、新兵器、兵器製造とその技術、などを継続的に調査研究すること、そして陸軍が外国で購買または製作する兵器、材料等の検査監督と、これらに関する交渉に当たることが任務であった[44]。
1928年(昭和3年)9月、技術部は所沢から東京府北多摩郡立川町に移転した[45]。また立川には1933年(昭和8年)に補給部所沢支部が移転し、補給部立川支部となった[46]。
技術部と補給部の独立
陸軍航空本部は設立以来10年間、編制と機能に関して大きな変化はなかった。しかし1931年(昭和6年)の満州事変を契機とした情勢の緊迫により陸軍航空は拡張をつづけ、それにしたがい航空本部の業務も著しく増大した。航空軍政の計画機関であると同時に実施機関でもある航空本部は、業務が複雑かつ繁多となるにつれて矛盾を呈するようになり、とくに技術部および補給部の計画、実施の両機能を分離する必要が生じた[47]。
1935年(昭和10年)8月1日、陸軍航空本部令改正(勅令第221号)、陸軍航空技術研究所令(勅令第222号)、および陸軍航空廠令(勅令第223号)が施行された[48][49][50]。これにより陸軍航空本部は改編され、従来の技術部は航空本部長隷下の陸軍航空技術研究所に、補給部は同じく陸軍航空廠に昇格、独立することとなった。陸軍航空本部の任務は「陸軍航空に関する事項の調査、研究、試験、立案」、「航空兵科諸軍隊の当該兵科専門教育の斉一進歩を図り、所轄学校の教育」、「航空に関する器材の制式統一」、「航空に関する器材、燃料等の整備、および検査」に関する事項を掌ると改められた。編制は総務部(第一課、第二課)、第一部、第二部という新体制になった。
同日の陸軍航空本部業務分掌規定(陸達第16号)により定められた航空本部における各部が掌る任務は次のとおり(1935年8月時点)[51]。
- 総務部
- 第一課
- 本部一切の業務整理に関する事項。
- 庶務、人事、および経理に関する事項。
- 航空部隊の編制、装備、および動員に関する事項。
- 第2課および他部の主管に属さない事項。
- 第二課
- 航空に関する事項(他部主管事項を除く)の調査、および研究。
- 航空諜報に関する事項。
- 航空思想の普及および民間における航空教育の指導に関する事項。
- 第一部
- 航空兵科諸軍隊本科専門教育および気球隊練習部における教育に関する事項。
- 陸軍飛行学校および陸軍航空技術学校に関する事項。
- 第二部
- 航空器材の制式統一および同制式に関する事項。
- 航空に関する器材、燃料等の整備および検査に関する事項。
- 陸軍航空技術研究所および陸軍航空廠に関する事項。
- 監督官業務の統制に関する事項。
- 民間軍需品工場の利用、培養、および統制に関する事項。
このほか改編前の検査部における現業を継承して、軍需品工場の監督を行う監督官を航空本部の所轄下に設け、各地に監督班(長は監督官長)または監督官在勤所が置かれた[52]。
航空本部権限の強化
陸軍航空の独立強化、究極の目標として空軍の創設は大正期より関係者の念願であった。その後の世界的な軍事思潮はさらに空軍独立が支配的となり、ドイツの再軍備と空軍独立に刺激を受けて1935年頃より陸軍部内では再び空軍独立論議が活発となった[53][54]。結果としてやはり空軍の独立は成功しなかったが、1936年(昭和11年)2月に起こった二・二六事件後の陸軍中央機構革新の流れの中で陸軍航空の強化が進められた。天皇に直隷し全航空部隊を統一指揮する航空兵団(兵団長は徳川好敏中将)が誕生したのは同年8月である。同時に航空本部の権限も変更を受けた。
1936年8月1日、陸軍省官制改正(勅令第211号)および陸軍航空本部令改正(勅令第212号)が施行された[55][56]。これによって陸軍航空本部は陸軍省の外局となり権限が強化された。外局とは、陸軍省外の官庁でありながらも特定の業務において陸軍省内の局と同等の資格で事務を分担し、陸軍大臣の幕僚の役割を果たす機関である[57][58]。それまで陸軍省主管であった航空行政は基本となる一部を除き航空本部に集約し、迅速化が可能となった[* 16]。具体的な例としては航空機用機関銃や弾薬の審査はそれまで陸軍技術本部で行っていたものを航空本部へ移管し、実行は航空本部長隷下の航空技術研究所が担当すること等々があげられる[59]。この改編の最大の効果は、航空本部長が航空予算を一元的に運用できるようになったことである。航空予算の運用に当たっての重点形成、予算の効力的な使用がこれによって可能となった[60]。同日付で新たに古荘幹郎中将が本部長となり、航空本部の総員は約1000名であった[58]。
陸軍省の外局として航空本部は陸軍大臣の幕僚業務も行うことになったが、それでもまだ航空に最も必要となる飛行場を設定、整備する機能を欠いていた[61]。そこで翌1937年(昭和12年)7月31日、陸軍航空本部令改正(勅令第373号)および陸軍経理部条例改正(勅令第380号)が公布、同日施行され、経理関係機能が強化された[62][63]。この改正により陸軍航空本部は総務部(第一課、第二課)、第一部(第三課、第四課)、第二部(第五課、第六課)に加えて、経理関係の業務を専門に担当する第三部(第七課、第八課)が置かれた。これは急速な航空増強にともない航空本部の経理業務が繁多となり、その迅速で適切な処理が重要性を増したことが主な理由であるが[64]、航空本部はみずから航空用の土地、建造物等の建設、管理も可能となった[61]。
次に示すのは陸軍航空本部事務分掌規定改正(昭和13年陸達第16号)その他により定められた航空本部における各部の広範な任務の概要である(1938年3月時点)[65][66]。
- 総務部
- 部内の庶務、人事、編制制度、隊務の大綱に関する事項。
- 民間航空、航空調査、宣伝、兵要気象に関する事項。他部の主管に属さない事項。
- 第一部
- 航空関係の諸学校教育、同軍隊教育および演習、同典令範の編纂に関する事項。
- 航空関係の諸施設、航空通信に関する事項。
- 第二部
- 航空兵器および航空燃料の制式、補給、修理、払下げ、調査、研究に関する事項。
- 航空技術に関する事項。民間軍需工場の利用、培養、統制に関する事項。
- 第三部
- 陸軍航空本部および本部長隷下機関の会計経理、航空関係の予算に関する事項。
- 飛行場その他の施設の設定、建築などに関する事項。
陸軍航空総監部の創設
1937年(昭和12年)までに陸軍航空は充備を進め、指揮系統では天皇に直隷する航空兵団長が全航空部隊を統轄することとなり、軍政面では航空本部の権限が強化され、教育においては航空兵科士官候補生のため所沢に陸軍士官学校分校が開設された。しかし陸軍航空には中核となる機関が存在せず、「航空省」を創設する案なども検討されたが実現には至らなかった[67][68]。同年7月の日中戦争(支那事変)勃発により、空軍独立を究極の目標とする航空関係者の論調は地上作戦協力を重視する慎重なものへ変わっていった[69]。
1938年(昭和13年)、こうした中で航空兵科専門教育を専任する天皇直隷機関として「航空総監部」を創設して陸軍航空の中核的機関とする案が参謀本部および陸軍省内で立てられた。これは陸軍航空には画期的なものとなるが、陸軍の伝統である教育統一を崩すものであるとして教育総監部は強く反対した[70][71]。しかし陸軍中央の主流には航空教育の特殊性に対する理解が深まっており、陸軍省軍務局の田中新一軍事課長、あるいは東條英機陸軍次官(航空本部長兼務)による推進が決定力となった[70][68]。
同年12月9日、陸軍航空本部令改正(勅令第743号)が、翌10日には陸軍航空総監部令(軍令第21号)が施行され、陸軍航空総監部(以下、場合により航空総監部と略)が創設された[72][73]。その主な目的は航空総監部令の理由書に「陸軍航空兵科軍隊ノ愈々複雑且専門化セルニ伴ヒ之ニ専任スル天皇直隷機関ヲ新設シ陸軍航空兵科軍隊教育ノ進歩発達ヲ図ルノ要アルニ因ル」と書かれているように、専任の機関を設けることで航空教育の特殊性と膨大化に、より良く対応させることであった[74][75][76]。また航空総監を天皇直隷とし陸軍航空の中核的存在とすることで、陸軍内における航空の地位を高めることにもなった[77][78]。
これにより航空兵科の本科専門教育に関する事項は航空総監部へ移管され、航空本部の担当外となった。しかし航空総監部の実態は航空本部と「二位一体」であり、航空総監は航空本部長を兼務し、航空総監部の人員(1938年12月時点の定員は42名)は3名を除きすべて航空本部の総務部および第一部の部長と部員が兼務するものであった[79]。
太平洋戦争下の編制
1938年12月に航空総監部が創設されて以後、陸軍航空は航空本部が軍政を、そして航空本部と二位一体の航空総監部が専門教育を担当する体制で統御、管理された。1939年(昭和14年)12月に陸軍飛行実験部が[80][81]、1940年(昭和15年)4月には陸軍航空工廠が設立され[82][83]、それぞれ航空本部の管理下に入ったが、それ以外は航空本部の編制と機能に数年間大きな変更がなかった。
1941年(昭和16年)12月8日、日本は米英など連合国との戦争に突入した。同日、航空本部および航空総監部は東京市牛込区市谷本村町の陸軍士官学校跡地(通称は市谷台)に移転した[84]。その他の陸軍官衙も教育総監部は同月1日に[85]、陸軍機甲本部は同月7日に同地へ移転しており[86]、翌週の15日には陸軍省および参謀本部も市谷台へ移転した[87]。
1942年(昭和17年)10月15日、陸軍航空本部令改正(勅令第679号)が施行された[88]。この改正は航空兵器の研究開発、生産、補給、修理の指導、統制強化が主な狙いであった[89]。航空本部の編制は総務部(庶務課、総務課、航務課)、教育部(教育課、典範課、保安課)、整備部(生産課、資材課、飛行機課、兵器課、調弁課)、技術部、経理部(経理課、施設課)、医務部の6部体制となった。この改編で新設された整備部および技術部は、従来の第二部を分割拡大したものである[90]。整備部を拡充することによって航空兵器の生産、補給、修理を強力に推進する狙いがあった。ほかにも整備部は燃料の購入、貯蔵公布、軍需動員の人員調整など幅広く活動した[91]。
同時に陸軍航空技術研究所は各部が独立した8つの航空技術研究所となり、陸軍飛行実験部は陸軍航空審査部に改編され、それぞれが航空本部の管掌下となった。それまで航空技術研究所が行っていた審査業務の一切は航空審査部に移管され、また研究と試作の実行機関が明瞭に区分された。こうした改革により航空技術研究所で濫発されがちであった航空兵器の試作は、航空本部が直接試作機関に指示して厳密に実施されることとなった[90]。そのほか航空作戦を重視し、陸軍気象部も航空本部長隷下の機関となった。
同年10月10日の陸軍航空本部業務分掌規定(陸達第63号)により、陸軍航空本部における各部の広範な任務が定められた[92]。その主なものは次のとおり(1942年10月時点)。
- 総務部
- 本部一切の庶務、人事、給与などに関する事項。
- 航空部隊の編制、装備、および動員に関する事項。
- 航空に関する戦時諸規則に関する事項。
- 航空予算の一般統制に関する事項。
- 教育部
- 飛行場、爆撃場、空中射撃場の使用、航空部隊の教材整備に関する事項。
- 航空事故審査に関する事項。
- 航空通信、航空保安、兵要気象、航法に関する事項。
- 航空関係の典令範に関する事項。
- 整備部
- 航空兵器、航空機燃料の整備、調達などに関する事項。
- 航空兵器工業の指導、助成、ならびに監督に関する事項。
- 航空兵器、航空機燃料の貯蔵、支給、交換、修理、検査などに関する事項。
- 技術部
- 航空兵器の考案、設計、および試作に関する事項。
- 航空兵器、航空機燃料の研究、審査、および制式に関する事項。
- 航空兵器、航空機燃料の試作ならびに研究機関の指導および監督に関する事項。
- 経理部
- 航空予算および決算に関する事項。
- 航空に関する経理制度、諸給与、被服、糧秣、衣糧器具の研究、審査などに関する事項。
- 航空に関する陸軍用地および諸建築に関する事項。
- 医務部
- 航空本部隷下部隊の衛生および医事に関する事項。
- 航空衛生(心理を含む)の研究ならびに直接これに関係する調査に関する事項。
- 航空衛生材料の研究、審査、および直接これに関係する調査に関する事項。
同年同月、航空本部は研究機関等との連絡のため日本各地に出張所を設置した。各出張所名と所在地は次のとおり(1942年10月時点)[93]。
- 太田出張所(群馬県新田郡太田町)、荻窪出張所(東京市杉並区宿町)、熱田出張所(名古屋市港区大江町)、大曽根出張所(名古屋市東区大幸町)、各務原出張所(岐阜県稲葉郡蘇原村)、明石出張所(兵庫県明石郡林崎村)、北立川出張所(東京府立川市)、砂川出張所(東京府北多摩郡大和村)、調布出張所(東京府北多摩郡調布町)、大阪出張所(大阪市此花区島屋町)、浜松出張所(浜松市中沢町)、神戸出張所(神戸市灘区日出町)、下関出張所(下関市大字豊浦村古都ノ浜)、日光出張所(栃木県日光町清滝)、安来出張所(島根県安来町)、大森出張所(東京市大森区大森)、龍宮出張所(名古屋市港区龍宮町)
1944年(昭和19年)3月、整備部は補給部(飛行機課、兵器課、器材課、整備課)に改編され、総務部に調査課、技術部に航空機課および装備課、経理部に会計課が設けられた。また教育部の教育課は第一教育課、第二教育課にわかれた[94][95][89]。
航空総軍設立と終戦
連合国との戦況が悪化した1944年6月、陸軍中央は航空関係の教育機関を戦力化し、錬成訓練を主眼とする5つの飛行学校(1分校を含む)が教導飛行師団に改編された[* 17]。教導飛行師団は作戦参加と教育の任務を併せて与えられ、航空総監の隷下に置かれた。
1945年(昭和20年)には戦況はさらに逼迫し、本土防衛に関係する航空諸軍を統率する天皇直隷の航空総軍(司令官は河辺正三大将)が同年4月15日に設立された。同年4月18日、「陸軍航空総監部令ノ適用停止ニ関スル件」(軍令陸第10号)が施行された[96]。これにより航空本部と二位一体であった陸軍航空総監部は閉鎖され、その人員は航空総軍司令部の編成に充当された。航空総軍と航空本部の職域には明確な区分があったが、航空においては兵器の生産、補給と運用は密接な関係があり、航空戦力をあげての本土決戦のため航空本部の各部長および部員の多くが航空総軍司令部要員を兼務し、航空本部は新たに航空総軍司令部との二位一体となったのである[97][98]。
同時に陸軍航空本部令改正(勅令第228号)が施行された[99]。航空本部の編制は総務部(庶務課、総務課、調査課)、教育部(第一教育課、第二教育課)、補給部(補給課、器材課、飛行機課、兵器課、装備課)、技術部(技術課)、経理部(経理課、施設課)、医務部、および監督官長以下となり[100]、機構は従来と大差ないものの、人員は縮小された[101]。航空本部の管掌する機関は航空技術研究所などの研究、生産に関する部門と、教育に関係する陸軍航空士官学校、各教導飛行師団などがあった[101]。同年5月10日、陸軍大臣の隷下にあった電波兵器 [* 18]を扱う多摩陸軍技術研究所が航空本部の管掌下となった[102]。
陸軍航空本部は兵器の研究、考案、試作、および整備等に関する業務のため、あるいは航空機用木材および航空関係工場生産拡充用木材の取得等に関する業務のため、さらに一部では航空関係工場技術指導に関する業務のため、多数の出張所を日本国全土に置いた。1945年7月時点で確認できる各出張所名と所在地は次のとおりである[103]。
- 太田出張所(群馬県新田郡太田町)、荻窪出張所(東京都杉並区宿町)、大森出張所(東京都大森区大森)、立川出張所(東京都立川市)、砂川出張所(東京都北多摩郡大和村)、調布出張所(東京都北多摩郡調布町)、日光出張所(栃木県日光町清滝)、安来出張所(島根県安来町)、知多出張所(愛知県知多郡大府町)、龍宮出張所(名古屋市港区星崎町)、大曽根出張所(名古屋市東区大幸町)、各務原出張所(岐阜県稲葉郡蘇原村)、大阪出張所(大阪市此花区島屋町)、神戸出張所(神戸市灘区日出町)、明石出張所(兵庫県明石郡林崎村)、下関出張所(山口県下関市)、平塚出張所(神奈川県平塚市馬入字天沼)、一宮出張所(愛知県一宮市川田町)、日立出張所(茨城県日立市助川)、川越出張所(埼玉県川越市脇田字前原)、狛江出張所(東京都北多摩郡狛江村)、京都出張所(京都市中京区西京桑原町)、溝口出張所(神奈川県川崎市久本鴛鴦町)、上連雀出張所(東京都北多摩郡三鷹町上連雀)、三田出張所(東京都芝区三田四国町)、柳町出張所(神奈川県川崎市堀川町)、西芝浦出張所(東京都芝区西芝浦)、亀戸出張所(東京都向島区吾嬬町)、三池出張所(福岡県大牟田市浅牟田町)、柏崎出張所(新潟県柏崎市大字枇杷島)、黒崎出張所(福岡県八幡市藤田五段新開)、宇都宮出張所(栃木県宇都宮市西原町)、熊本出張所(熊本県熊本市健軍町)、前橋出張所(群馬県前橋市天川原町)、松本出張所(長野県松本市大字筑摩)、勝田出張所(茨城県那珂郡勝田町)、蒲田出張所(東京都蒲田区東蒲田)、宮竹出張所(静岡県浜松市宮竹町)、静岡出張所(静岡県静岡市小鹿)、岡山出張所(岡山県岡山市福島)、都城出張所(宮崎県都城市川東町)、黒沢尻出張所(岩手県和賀郡黒沢尻町)、刈谷出張所(愛知県碧海郡刈谷町)、札幌出張所(北海道札幌市)、盛岡出張所(岩手県盛岡市)、広島出張所(広島県広島市祇園町)、平壌出張所(朝鮮平壌府美林町)、京城出張所(朝鮮京城府鍾路区鍾路)
同年8月、御前会議においてポツダム宣言の受諾が最終決定され、8月15日正午より太平洋戦争の終戦に関する玉音放送が行われた。同日、航空本部長寺本熊市中将は自決し、その後の本部長は河辺航空総軍司令官が兼務した。陸軍航空本部令は同年11月15日施行の臨時陸軍残務整理部令(勅令第631号)により廃止され、同時に陸軍航空本部は陸軍航空本部残務整理部(部長は寺田済一中将)を残し廃止となった[104][105]。
注釈
- ^ 隷属(れいぞく)とは固有の上級者の指揮監督下に入ること。単に指揮系統だけでなく、統御、経理、衛生などの全般におよぶ。『帝国陸軍編制総覧 第一巻』61頁
- ^ 川田明治(かわだあきはる)陸軍歩兵大尉。陸軍士官学校第10期卒業。参謀本部勤務、歩兵第26連隊長、教育総監部庶務課長、関東軍参謀長、下関要塞司令官などを務めた。最終階級は陸軍中将。 『陸軍現役将校同相当官実役停年名簿』大正9年9月1日調 『陸軍現役将校同相当官実役停年名簿』大正12年9月1日調 『陸軍現役将校同相当官実役停年名簿』昭和3年9月1日調
- ^ 同年10月、報告書はさらに陸軍将校の機関紙『偕行社記事』の別冊として出版された。『陸軍航空の軍備と運用 (1) 』13頁
- ^ 1915年1月に交通兵旅団を改編。
- ^ 「軍令」と表現する場合もある。
- ^ 組織名称が「制度調査委員」であり「制度調査委員“会”」ではない。「大日記甲輯 大正10年(防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C02030980700
- ^ 将校相当官とは軍人のうち経理部、衛生部など各部で兵科将校と同等の階級にある高等官をいう。兵科将校の少尉と同等な経理部将校相当官は三等主計、衛生部将校相当官は三等軍医など(ほかに三等薬剤官、三等看護官がある)である。1937年2月15日の陸軍武官官等表改正(勅令第12号)により将校相当官は「各部将校」と呼称が変更され、階級名も三等主計は主計少尉、三等軍医は軍医少尉とそれぞれ変更された。
- ^ 陸軍技師(りくぐんぎし)は陸軍に属する非軍人、すなわち軍属の一種である。技術関係の職に従事する文官のうち、将校と同待遇の高等文官を技師とした。
- ^ 陸軍での正式な呼称は1931年11月10日施行の陸軍武官官等表中改正(勅令第270号)まで「下士」、以後「下士官」であるが、便宜上「下士官」で統一する。「御署名原本・昭和六年・勅令第二七〇号・陸軍武官官等表中改正(国立公文書館)」 アジア歴史資料センター Ref.A03021824900
- ^ 陸軍技手(りくぐんぎしゅ)は陸軍に属する非軍人、すなわち軍属の一種。技術関係の職に従事する文官のうち、下士官と同待遇の判任文官が技手である。技師との聞き間違いを避けるため、技手を「ぎて」と重箱読みする場合がある。
- ^ 組織名称が「航空制度研究委員」であり「航空制度研究委員“会”」ではない。「大日記甲輯 大正11年(防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C02031040200
- ^ 当時の第3師団は飛行第1連隊、飛行第2連隊を擁し、航空色の強い師団である。
- ^ 将校、准士官、下士官は憲兵科を除く各兵科からなり、兵は工兵科のみであった。『陸軍航空の軍備と運用 (1) 』248頁
- ^ 1925年5月時点では所沢陸軍飛行学校、下志津陸軍飛行学校、明野陸軍飛行学校の3校があった。
- ^ この場合の「軍隊」とは陸軍全体を「軍隊」「官衙(かんが)」「学校」「特務機関」の4つに分類したうちの1つ。師団等の司令部および部隊の総称と考えてよい。
- ^ 基本に関する事項は陸軍省軍軍務局事課が引き続き所掌とした。『陸軍航空兵器の開発・生産・補給』126頁
- ^ 下志津、明野、浜松、鉾田、白城子(宇都宮に移転)の各陸軍飛行学校と明野陸軍飛行学校常陸分校が教導飛行師団となった。
- ^ 電波兵器とは電波警戒機(レーダー)にかぎらず、電波誘導機、電波妨害機などがふくまれる。『陸軍航空兵器の開発・生産・補給』414-415頁
- ^ 阿南大将は1945年4月7日に発足した鈴木貫太郎内閣の陸軍大臣に親任された。
- ^ 事務取扱(じむとりあつかい)とは組織の中で上位の職にある者が、下位職にあたる業務を行うこと。陸軍航空審査部本部長は陸軍航空本部長に隷属する下位職であるため、兼務ではなく事務取扱となる。
出典
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