航空兵科独立へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/21 04:25 UTC 版)
第一次世界大戦以来、欧米列強は航空兵力の独立性を高めていた。英国では1918年4月、世界に先駆け空軍を設立し、同年アメリカ合衆国では陸軍の航空部門(Army Air Service。「陸軍航空部」と訳される場合がある)を独立させている。日本陸軍では1920年(大正9年)10月、陸軍航空制度研究委員が組織された。航空部本部長、井上幾太郎中将(同年8月進級)は前述委員の長として従来制度の改善を考察する責務が陸軍大臣より与えられた。また、同年12月から翌年にかけて海軍との共同研究も行われた。井上は陸海軍の航空を統一した空軍建設論を展開したが、海軍の反対だけでなく陸軍内部でも時期尚早論が大勢を占め空軍計画は頓挫した。次善策として航空制度研究委員は航空兵科の独立案、そのほか陸軍航空部を拡充し航空本部とすることなどを研究し、1922年(大正11年)11月に解散した。1923年(大正12年)3月、井上は第3師団長に転出し、白川義則陸軍次官が航空部本部長を兼務した。 航空兵科の独立に障壁となるのは将校の人事であった。航空は操縦者を中心に将校の比率が高く、多くの若い尉官が年齢を重ねたときに佐官に進級させようにも航空兵という単一兵科の中では補職先が十分でないという懸念である。これに対して陸軍航空制度研究委員は操縦者に下士官を多数採用すること、航空技術および戦術の進歩により支援(整備、通信、気象、補給その他)の地上勤務者が増大し、操縦将校は将来そうした地上勤務の上級将校に転ずるという案であった。 第一次世界大戦後の不況が原因となり日本を含む世界の大勢は軍縮基調であったが、列強各国は航空軍事に関しては上述のように内容の改善と充実に努めていた。日本陸軍では1922年と1923年の軍備整理を経て、1924年(大正13年)に就任した宇垣一成陸軍大臣が通算で3度目となる翌年の軍備整理(いわゆる「宇垣軍縮」)に着手した。その際に陸軍全体を量的に削減するかわりに質的向上として近代化が進められ、陸軍航空はその対象として充実がはかられた。難産の末に航空兵科独立と陸軍航空本部の設立が可能となった。
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