長州藩及び長州藩士の援護活動とは? わかりやすく解説

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長州藩及び長州藩士の援護活動(明治維新における活動)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 21:27 UTC 版)

中野半左衛門 (景郷)」の記事における「長州藩及び長州藩士の援護活動(明治維新における活動)」の解説

左衛門は、本業酒造業並びに通船工事事業及び貿易商業事業得た莫大な財産をもって長州藩財政援護(藩に対す多々多額献金)により明治維新早期化に貢献しまた、学者文士集う環境の裡に育ったことによる理性と知を用いて長州藩士援護活動及び参謀役割担った幕末長州藩富商達(中野家との関係)幕末における長州藩には、長州藩多額資金提供し長州藩士勤皇志士たち)を援護し明治維新成し遂げた功労者に、長州藩三大富商と言われ下関白石正一郎(資風)、西市中野半左衛門(景郷)熊谷五一(義右)がいる。 中野家熊谷家は、古くから親密な関係にあった。これは、熊谷家(長州藩の本藩である萩藩御用商人)と中野家姻戚関係にあったこと及び同じく中野家も本萩藩御用商人であったことから親し間柄築いてきた。 しかしながら中野家白石家とは上手くいかず疎遠な関係にあった。これは、白石正一郎長州藩支藩である長府藩のさらに下流支藩である清末藩1万石)の小資本御用商人であったことから、藩での立場政治的立場)が弱かった対して左衛門の本藩萩藩369千石であり、半左衛門下関交通の要衝豊浦最高位役人である大庄屋であった。)。そこで、安政5年1858年)に、白石正一郎が、西郷隆盛などの仲介により薩摩藩物資長州藩卸す交易事業産物方役所提出し内願したが却下された。白石正一郎代わりに薩長交易実施した中野半左衛門である。これは、前出、半左衛門萩藩宗家長州藩藩庁)の大庄屋格及び政商御用商人であったこと、並びに下関新地物産会所会頭執り仕切っていたことなどの事由から、萩藩庁(本藩庁)からの命により正式な薩長交易支配人授かり薩摩との交易支配したことによる上述記載のとおり 。)。 ただし、白石正一郎は、自身計画した薩摩との交易事業中野左衛門奪われたのが苦渋であり、温厚実直な性格知られている正一を以てして自身日記には「(中野半左衛門を)大奸物 、マガモノ 、(大悪人) 」であるという侮蔑的な表現で半左衛門非難している。 付記事項奇兵隊結成白石正一郎邸宅行われ本拠地は同邸宅置かれたことはつとに有名である。しかしながら数多戦闘繰り広げ最後に病気結核循環器系病い)が酷になった高杉晋作は、白石邸から遠ざけられた。正一郎と長年付き合ってきた木戸孝允は、商人として打算から政治取り入ろうとする正一郎の姿勢当然のことであり、それ以外にもあらゆる面で晋作擁護した正一郎を大い理解はしているが、木戸孝允自身によれば、命を擦り減らし死の病につき既に政治的利用価値なくなった晋作屋敷から遠ざけ白石正一郎最後まで面倒を見なかった行自体許せなかった。。医者田舎養生勧めもあるが、最期下関町中にある九郎邸の離れ屋敷で息を引き取った慶応3年1867年5月17日)。 中山忠光救出援護左衛門日記によれば文久3年1863年4月明治天皇叔父であり孝明天皇侍従公家であった中山忠光天誅組主将)は密かに京都出立し長州藩長府藩)邸に身を寄せその後、半左衛門頼り中野半左衛門邸宅宿泊し白石正一郎邸宅移った中山忠光下関戦争参加するなど長州藩においても攘夷急進派としての名を馳せていた。この頃孝明天皇攘夷親征詔勅大和行幸)が発せられ京都攘夷急進派勢力強まっていたことから、文久3年1863年8月京都出発し錦の御旗錦旗)の先鋒をすべく天誅組組織した。しかし、同年同月八月十八日の政変文久の政変堺町御門の変)により京都における攘夷急進派一掃され朝廷からも追方され、天誅組朝臣三条実美以下七卿と共に都落ちとなり長州藩邸へ向かった。主にこの頃から、長州にて京都落ち攘夷急進派奇兵隊諸隊その他の討幕派を世話をしたのが、上述幕末長州藩三大富商と言われたの白石正一郎下関)、中野半左衛門西市)、熊谷五一であった宍戸真澂天誅組その他急進派とともに西市本陣(殿敷長正寺本陣)の半左衛門邸宅在住希望しており半左衛門に家のことを頼んでいた。文久3年1863年9月の半左衛門日記によれば、「 宍戸九郎兵衛宍戸真澂)様 当地在住に付 山根之家(殿敷長正寺付近)被繕普請致し候事 」とある。 西市地方伝承では、大阪在中していた半左衛門ところに中山忠光逃げ込み船舶大阪から長州へで逃したように伝えられていたが、半左衛門日記を辿るとそれは間違いであり、中山忠光大阪長州藩邸に逃げ込み宍戸真澂船舶大阪から長州逃したことが書かれているその後中山忠光は、長州藩預かり保護していた。時折長州藩斡旋により半左衛門中山忠光月山の麓庭田豊浦郡豊田町庭田)に潜伏させお世話をしていた。 『 中山侍従 豊浦より帰り掛け 宿まり 中山侍従 送り戻りなり 』 — 中野半左衛門日記文久3年11月14日 また、潜伏期間中、平戸藩松浦清の娘であり母である中山愛子中山忠光様子知りたく代理としてその乳母面会来ている。 『 中山侍従乳母 卿を尋ね来る』 — 中野半左衛門日記元治元年3月17日 中山忠光は、長州藩に匿われてから約1年後元治元年1864年11月15日夜に最後潜伏先である大田右衛門付近西市長正寺町に近い豊浦郡田耕村)で長州藩恭順派5人の刺客襲われ暗殺絞殺)された。 付記事項中山忠光官位復官運動のため、幕末女流歌人勤王家中山三屋は、大政奉還京都出発して伊勢国藤堂藩訪れ建白書提出するまた、近畿山陽有力な志士達を歴訪し、やがて訪れ熊谷五一邸宅には長く滞在した。半左衛門日記によれば中山三屋中野半左衛門邸宅明治3年1870年9月から11月まで滞在し中野家中山三屋描いた朝顔芽ばえその他の絵歌や書画残していった。 中山忠光は、長府藩潜伏中下関恩地トミ侍妾とし、トミは忠光の唯一の子息である中山南加明治天皇従姉妹)を忠光の死後出産する中山南加は、嵯峨家日本の華族)の嵯峨公勝婚姻する。南加の孫にあたる嵯峨浩は、愛新覚羅溥傑婚姻した。中山忠光中野半左衛門との親密な関係から、近代入ってからもその関係は続き左衛門曾孫である中野宣治一族と忠光の曾孫姻族である愛新覚羅溥傑一族との交際続いていた(上述記載通り。)。なお、愛新覚羅溥傑最後清朝皇帝でのちに満州国皇帝となった愛新覚羅溥儀俗称ラストエンペラー)の弟である。 勤皇志士奇兵隊諸隊他)の支援援護宍戸真澂は、元治元年4月から長州藩大阪藩邸留守役として上阪していたが、会津藩主である松平容保京都守護職)らの排斥目的として京都起きた武力衝突事件である禁門の変蛤御門の変元治の変)に参加し大敗をすると、半左衛門西市長正寺町に帰郷し謹慎処分となった。これを半左衛門日記によって示す。 『 宍戸左馬介(真澂)殿帰着 西京変動役罹之 於西市謹慎ナリ 』 — 中野半左衛門日記元治元年8月14日 その後甲子殉難十一烈士きのえねじゅんなんじゅういちれっし)が起こる。長州藩内の俗論党により、元治元年1864年10月24日尊皇攘夷派11人が野山獄投獄され同年11月12日宍戸真澂筆頭に4名が、さらに、同年12月19日には山田亦介他7名が斬首された。半左衛門は、長年に亘り援護活動をしていた尊皇攘夷派11人、中でも20年来の付き合いであった親友宍戸真澂失った高杉晋作奇兵隊創設した文久3年1863年6月以降、各長州藩諸隊組織され長州藩内の恭順派(幕府派、俗論派)を排除し正義派維新派、尊攘派)に統一すべく高杉晋作ら各諸隊は、倒幕準備進めていた。元治元年1864年12月15日功山寺挙兵こうざんじきょへい)別名、回天義挙元治の内乱により、恭順派の先方であり政務にあった椋梨藤太らを排斥し実質的に正義派が、長州藩全体防長2国(周防国長門国))において実権掌握することになる 。 この頃慶応元年1865年)から、倒幕実現すべく勤王志士の半左衛門邸宅への出入り激しくなる 。半左衛門日記によれば、この出入り様子が数にわたり書かれているが、以下に主要な部分抜粋する慶応元年1865年9月3日奇兵隊 高杉晋作 殿 山狂介(有朋)殿 野村和作(靖)殿 右当家入り泊まり酒飯 出立川船にて吉田行き慶応元年1865年9月17日木戸孝允桂小五郎)様 上下四人当家に宿まり 山下七郎より引き請け慶応元年1865年10月14日「半左衛門 新地林八郎左衛門方で岡本孝作先宅にて木戸孝允君より御馳走出る候 高杉晋作井上聞多(馨)君 伊藤春輔伊藤博文)君 土佐藩壱人夕方までの候事」 慶応2年1866年2月3日「八ツ時半 高杉晋作谷潜蔵殿宿まり(中略紅屋喜兵衛蔵宿まりの事 翌日長野店屋まで見送る」 慶応2年1866年2月14日井上聞多(馨) 殿 林半七殿御宿りより滞留慶応2年1866年2月不明政子堂払界 品川弥二郎 初井是之介 殿 八専作 殿と十人 宿まりのこと」 慶応2年1866年4月2日雨天 谷潜蔵高杉晋作)様と家内様その外御勢七人宿まりの事」 慶応2年1866年7月19日夜中 奇兵隊新人 宍戸備前(親基)の内 藤源太郎殿 来臨慶応2年1866年9月7日晴天 野村和作(靖)殿来る」 慶応2年1866年11月19日晴天 木戸孝允)様 宍戸(親基)様 御出立の事 御舟にて百介御供の事」 慶応3年1867年4月4日奇兵隊 時山直八 岡部治人 元森然二郎中間一 右御宿まりの事」 明治元年1868年4月23日宍戸弥太宍戸真澂長男中野家山根の家 引き払い 諸道具御売別の事」 半左衛門は、援護する勤皇志士達に危険が迫った時のために対策部屋備え付けていた。対策部屋とは、中野家書院存する身を隠すために仕掛けられた三畳間とその天井裏部屋指し、更に勤皇志士達に危険が迫った時には、その天井裏部屋の窓から屋外、つまり半左衛門工事をした木屋川逃げられるという仕組みになっていた。 また、左衛門は、来訪した勤皇志士との会談については主に中野家別館環流亭(学者であり祖父玄子徳が学者達との談合の場にしていた。)で行っていた。上述1.2 生い立ち)に記述したとおり、学者文士環境の裡に育った左衛門は、自身中野家書院居間にて倒幕運動の策を練り上げ勤皇志士たちの参謀役割担っていた。 以上、中野半左衛門(景郷)行為事実が示すものは、江戸幕末という日本国潮目が変わる時期から明治維新成熟するまでの期間、倒幕運動進め勤皇志士達への大庄屋格(要衝最高位役人)という立場による政治的支援行為参謀支援行為及び殖産興業富国策で得た莫大な富による財政的支援行為並びに幕府軍制圧した新政府軍薩長同盟軍)への多額献金によって維新援護資し近代日本早期発展における中核的役割担ったとまでは言い難いでも、その一翼担った行動行為にある。 その後明治入り文明開化さきがけとともに明治7年1874 年2月12日71歳死去病死に至る)。

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