長州藩及び長州藩士の援護活動(明治維新における活動)
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「中野半左衛門 (景郷)」の記事における「長州藩及び長州藩士の援護活動(明治維新における活動)」の解説
半左衛門は、本業の酒造業、並びに通船工事事業及び貿易商業事業で得た莫大な財産をもって、長州藩の財政を援護(藩に対する多々多額の献金)により明治維新の早期化に貢献し、また、学者文士の集う環境の裡に育ったことによる理性と知を用いて長州藩士の援護活動及び参謀的役割を担った。 幕末長州藩の富商達(中野家との関係)幕末における長州藩には、長州藩に多額の資金を提供し長州藩士(勤皇の志士たち)を援護し明治維新を成し遂げた功労者に、長州藩の三大富商と言われた下関の白石正一郎(資風)、西市の中野半左衛門(景郷)、萩の熊谷五一(義右)がいる。 中野家と熊谷家は、古くから親密な関係にあった。これは、熊谷家(長州藩の本藩である萩藩の御用商人)と中野家が姻戚関係にあったこと及び同じく中野家も本藩萩藩の御用商人であったことから親しい間柄を築いてきた。 しかしながら、中野家と白石家とは上手くいかず疎遠な関係にあった。これは、白石正一郎が長州藩の支藩である長府藩のさらに下流の支藩である清末藩(1万石)の小資本の御用商人であったことから、藩での立場(政治的立場)が弱かった(対して半左衛門の本藩萩藩は36万9千石であり、半左衛門は萩と下関の交通の要衝豊浦の最高位の役人である大庄屋格であった。)。そこで、安政5年(1858年)に、白石正一郎が、西郷隆盛などの仲介により薩摩藩の物資を長州藩に卸す交易事業を産物方役所に提出し内願したが却下された。白石正一郎の代わりに薩長交易を実施したが中野半左衛門である。これは、前出、半左衛門が萩藩宗家(長州藩本藩庁)の大庄屋格及び政商御用商人であったこと、並びに下関新地物産会所会頭を執り仕切っていたことなどの事由から、萩藩庁(本藩庁)からの命により正式な薩長交易支配人を授かり、薩摩との交易を支配したことによる(上述記載のとおり 。)。 ただし、白石正一郎は、自身が計画した薩摩との交易事業を中野左衛門に奪われたのが苦渋であり、温厚で実直な性格で知られている正一郎を以てして自身の日記には「(中野半左衛門を)大奸物 、マガモノ 、(大悪人) 」であるという侮蔑的な表現で半左衛門を非難している。 付記事項奇兵隊の結成は白石正一郎の邸宅で行われ、本拠地は同邸宅に置かれたことはつとに有名である。しかしながら、数多の戦闘を繰り広げ最後には病気(結核他循環器系の病い)が酷になった高杉晋作は、白石邸から遠ざけられた。正一郎と長年付き合ってきた木戸孝允は、商人としての打算から政治に取り入ろうとする正一郎の姿勢は当然のことであり、それ以外にもあらゆる面で晋作を擁護した正一郎を大いに理解はしているが、木戸孝允自身によれば、命を擦り減らし死の病につき既に政治的利用価値のなくなった晋作を屋敷から遠ざけ白石正一郎が最後まで面倒を見なかった行為自体が許せなかった。。医者の田舎養生の勧めもあるが、最期は下関の町中にある林算九郎邸の離れ屋敷で息を引き取った(慶応3年(1867年)5月17日)。 中山忠光の救出援護半左衛門日記によれば、文久3年(1863年)4月、明治天皇の叔父であり孝明天皇の侍従(公家)であった中山忠光(天誅組の主将)は密かに京都を出立し、長州藩(長府藩)邸に身を寄せ、その後、半左衛門を頼り中野半左衛門の邸宅に宿泊し白石正一郎の邸宅に移った。 中山忠光は下関戦争に参加するなど長州藩においても攘夷急進派としての名を馳せていた。この頃に孝明天皇の攘夷親征の詔勅(大和行幸)が発せられ京都の攘夷急進派の勢力が強まっていたことから、文久3年(1863年)8月に京都へ出発し錦の御旗(錦旗)の先鋒をすべく天誅組を組織した。しかし、同年同月、八月十八日の政変(文久の政変、堺町御門の変)により京都における攘夷急進派が一掃され朝廷からも追方され、天誅組は朝臣三条実美以下七卿と共に都落ちとなり長州藩邸へ向かった。主にこの頃から、長州にて京都落ちの攘夷急進派や奇兵隊諸隊その他の討幕派を世話をしたのが、上述の幕末長州藩の三大富商と言われたの白石正一郎(下関)、中野半左衛門(西市)、熊谷五一(萩)であった。 宍戸真澂は天誅組その他急進派とともに、西市本陣(殿敷長正寺の本陣)の半左衛門の邸宅に在住を希望しており半左衛門に家のことを頼んでいた。文久3年(1863年)9月の半左衛門日記によれば、「 宍戸九郎兵衛(宍戸真澂)様 当地在住に付 山根之家(殿敷長正寺付近)被繕普請致し候事 」とある。 西市地方の伝承では、大阪に在中していた半左衛門のところに中山忠光が逃げ込み船舶で大阪から長州へで逃したように伝えられていたが、半左衛門日記を辿るとそれは間違いであり、中山忠光が大阪の長州藩邸に逃げ込み、宍戸真澂が船舶で大阪から長州へ逃したことが書かれている。 その後、中山忠光は、長州藩が預かり保護していた。時折、長州藩の斡旋により半左衛門は中山忠光を月山の麓庭田(豊浦郡豊田町庭田)に潜伏させお世話をしていた。 『 中山侍従 豊浦より帰り掛け 宿まり 中山侍従 送り戻りなり 』 — 中野半左衛門日記抄 文久3年11月14日 また、潜伏期間中、平戸藩主松浦清の娘であり母である中山愛子が中山忠光の様子を知りたく代理としてその乳母が面会に来ている。 『 中山侍従卿乳母 卿を尋ね来る』 — 中野半左衛門日記抄 元治元年3月17日 中山忠光は、長州藩に匿われてから約1年後の元治元年(1864年)11月15日の夜に、最後の潜伏先である大田親右衛門宅付近(西市長正寺町に近い豊浦郡田耕村)で長州藩恭順派5人の刺客に襲われて暗殺(絞殺)された。 付記事項中山忠光の官位復官運動のため、幕末女流歌人で勤王家中山三屋は、大政奉還後京都を出発して、伊勢国藤堂藩を訪れ建白書を提出する。また、近畿山陽の有力な志士達を歴訪し、やがて萩を訪れ熊谷五一の邸宅には長く滞在した。半左衛門日記によれば、中山三屋は中野半左衛門の邸宅に明治3年(1870年)9月から11月まで滞在し、中野家に中山三屋が描いた朝顔芽ばえ、蛍、桜その他の絵歌や書画を残していった。 中山忠光は、長府藩潜伏中、下関の恩地トミを侍妾とし、トミは忠光の唯一の子息である中山南加(明治天皇の従姉妹)を忠光の死後に出産する。中山南加は、嵯峨家(日本の華族)の嵯峨公勝と婚姻する。南加の孫にあたる嵯峨浩は、愛新覚羅溥傑と婚姻した。中山忠光と中野半左衛門との親密な関係から、近代に入ってからもその関係は続き半左衛門の曾孫である中野宣治一族と忠光の曾孫姻族である愛新覚羅溥傑一族との交際は続いていた(上述記載の通り。)。なお、愛新覚羅溥傑は最後の清朝皇帝でのちに満州国皇帝となった愛新覚羅溥儀(俗称、ラストエンペラー)の弟である。 勤皇の志士(奇兵隊諸隊他)の支援援護宍戸真澂は、元治元年4月から長州藩の大阪藩邸の留守役として上阪していたが、会津の藩主である松平容保(京都守護職)らの排斥を目的として京都で起きた武力衝突事件である禁門の変(蛤御門の変、元治の変)に参加し大敗をすると、半左衛門の西市長正寺町に帰郷し、謹慎処分となった。これを半左衛門日記によって示す。 『 宍戸左馬介(真澂)殿帰着 西京変動役罹之 於西市謹慎ナリ 』 — 中野半左衛門日記抄 元治元年8月14日 その後、甲子殉難十一烈士(きのえねじゅんなんじゅういちれっし)が起こる。長州藩内の俗論党により、元治元年(1864年)10月24日に尊皇攘夷派の11人が野山獄の投獄され、同年11月12日に宍戸真澂を筆頭に4名が、さらに、同年12月19日には山田亦介他7名が斬首された。半左衛門は、長年に亘り援護活動をしていた尊皇攘夷派の11人、中でも20年来の付き合いであった親友宍戸真澂を失った。 高杉晋作が奇兵隊を創設した文久3年(1863年)6月以降、各長州藩諸隊が組織され長州藩内の恭順派(幕府派、俗論派)を排除し正義派(維新派、尊攘派)に統一すべく高杉晋作ら各諸隊は、倒幕の準備を進めていた。元治元年(1864年)12月15日の功山寺挙兵(こうざんじきょへい)別名、回天義挙、元治の内乱により、恭順派の先方であり政務座にあった椋梨藤太らを排斥し実質的に正義派が、長州藩全体(防長2国(周防国、長門国))において実権を掌握することになる 。 この頃、慶応元年(1865年)から、倒幕を実現すべく勤王の志士の半左衛門邸宅への出入りが激しくなる 。半左衛門日記によれば、この出入りの様子が数枚にわたり書かれているが、以下に主要な部分を抜粋する。慶応元年(1865年)9月3日「奇兵隊 高杉晋作 殿 山県狂介(有朋)殿 野村和作(靖)殿 右当家に入り泊まり酒飯 出立川船にて吉田行き」 慶応元年(1865年)9月17日「木戸孝允(桂小五郎)様 上下四人当家に宿まり 山下七郎より引き請け」 慶応元年(1865年)10月14日「半左衛門 新地林八郎左衛門方で岡本孝作先宅にて木戸孝允君より御馳走出る候 高杉晋作君 井上聞多(馨)君 伊藤春輔(伊藤博文)君 土佐藩壱人夕方までの候事」 慶応2年(1866年)2月3日「八ツ時半 高杉晋作事谷潜蔵殿宿まり(中略)紅屋喜兵衛民蔵宿まりの事 翌日長野の店屋まで見送る」 慶応2年(1866年)2月14日「井上聞多(馨) 殿 林半七殿御宿りより滞留」 慶応2年(1866年)2月日不明「政子堂払界 品川弥二郎 初井是之介 殿 八藤専作 殿と十人 宿まりのこと」 慶応2年(1866年)4月2日「雨天 谷潜蔵(高杉晋作)様と家内様その外御勢七人宿まりの事」 慶応2年(1866年)7月19日「夜中 奇兵隊新人 宍戸備前(親基)の内 藤掛源太郎殿 来臨」 慶応2年(1866年)9月7日「晴天 野村和作(靖)殿来る」 慶応2年(1866年)11月19日「晴天 桂(木戸孝允)様 宍戸(親基)様 御出立の事 御舟にて百介御供の事」 慶応3年(1867年)4月4日「奇兵隊 時山直八 岡部治人 元森然二郎 同中間一 右御宿まりの事」 明治元年(1868年)4月23日「宍戸小弥太(宍戸真澂の長男)中野家山根の家 引き払い 諸道具御売別の事」 半左衛門は、援護する勤皇の志士達に危険が迫った時のために対策部屋も備え付けていた。対策部屋とは、中野家書院に存する身を隠すために仕掛けられた三畳間とその天井裏部屋を指し、更に勤皇の志士達に危険が迫った時には、その天井裏部屋の窓から屋外、つまり半左衛門が工事をした木屋川へ逃げられるという仕組みになっていた。 また、半左衛門は、来訪した勤皇の志士との会談については主に中野家別館、環流亭(学者であり祖父中玄子徳が学者達との談合の場にしていた。)で行っていた。上述(1.2 生い立ち)に記述したとおり、学者文士の環境の裡に育った半左衛門は、自身も中野家書院の居間にて倒幕運動の策を練り上げ、勤皇の志士たちの参謀的役割も担っていた。 以上、中野半左衛門(景郷)の行為事実が示すものは、江戸幕末という日本国の潮目が変わる時期から明治維新が成熟するまでの期間、倒幕運動を進める勤皇の志士達への大庄屋格(要衝の最高位の役人)という立場による政治的支援行為、参謀的支援行為及び殖産興業富国策で得た莫大な富による財政的支援行為、並びに幕府軍を制圧した新政府軍(薩長同盟軍)への多額の献金によって維新の援護に資し近代日本の早期発展における中核的役割を担ったとまでは言い難いまでも、その一翼を担った行動行為にある。 その後、明治に入り文明開化のさきがけとともに明治7年( 1874 年)2月12日、71歳で死去(病死に至る)。
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