長州藩の攘夷決行とは? わかりやすく解説

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長州藩の攘夷決行

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/08 00:46 UTC 版)

下関戦争」の記事における「長州藩の攘夷決行」の解説

攘夷運動中心となっていた長州藩日本海瀬戸内海を結ぶ海運要衝である馬関海峡下関海峡関門海峡)に砲台整備し、藩兵および浪士からなる1000程、帆走軍艦2隻(丙辰丸庚申丸)、蒸気軍艦2隻(壬戌丸癸亥丸いずれもイギリス商船に砲を搭載)を配備して海峡封鎖態勢取った攘夷期日文久3年5月10日1863年6月25日)、長州藩見張り田ノ浦沖に停泊するアメリカ商船ペンブローク号(Pembroke)を発見総奉行毛利元周長府藩主)は躊躇するが、久坂玄瑞強硬派攻撃主張し決行決まった翌日午前2時頃、海岸砲台と庚申丸癸亥丸砲撃行い攻撃予期していなかったペンブローク号は周防灘逃走した外国船を打ち払った ことで長州藩意気大い上がり朝廷からもさっそく褒勅の沙汰があった。 5月23日長府藩長州藩支藩)の物見横浜から長崎へ向かうフランス通報艦キャンシャン号(英語版)(Kien-Chang)が長府沖に停泊しているのを発見長州藩はこれを待ち受け、キャンシャン号が海峡内に入ったところで各砲台から砲撃加え、数発が命中して損傷与えた。キャンシャン号は備砲応戦するが、事情分からずペンブローク号は長崎戻らず上海向かったため、同船攻撃受けたことを、まだ知らなかった)、交渉のために書記官乗せたボート下ろして陸へ向かわせたが、藩兵は銃撃加え書記官負傷し水兵4人が死亡した。キャンシャン号は急ぎ海峡通りぬけ、庚申丸癸亥丸がこれを追うが深追いはせず、キャンシャン号は損傷しつつも翌日長崎到着した26日オランダ外交代表ディルク・デ・グラーフ・ファン・ポルスブルック乗せたオランダ東洋艦隊所属メデューサ号(Medusa)が長崎から横浜へ向かうべく海峡入った。キャンシャン号の事件知らされていたが、オランダ他国異なり鎖国時代から江戸幕府との長い友好関係があり、長崎奉行大久保忠恕許可証受領しており、幕府水先案内人乗艦していたため攻撃されまい油断していたところ、長州藩砲台構わず攻撃開始し癸亥丸接近して砲戦となったメデューサ号は1時間ほど交戦した17発を被弾し死者4名、船体大きな被害を受け周防灘逃走した長州藩アメリカフランス艦船への砲撃当時国際法違反するのである

※この「長州藩の攘夷決行」の解説は、「下関戦争」の解説の一部です。
「長州藩の攘夷決行」を含む「下関戦争」の記事については、「下関戦争」の概要を参照ください。

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