せんぷく‐きかん【潜伏期間】
読み方:せんぷくきかん
⇒潜伏期
潜伏期間
潜伏期間
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/14 21:03 UTC 版)
潜伏期間(せんぷくきかん、英: incubation period, latent period)、あるいは潜伏期とは、病原体に感染してから、体に症状が出るまでの期間、あるいは感染性を持つようになるまでの期間のこと。病原体の種類によって異なる。
英語のincubation period、latent periodはいずれも潜伏期と訳されるが、この二つは明確に区別され、本人が病原体に感染してから症状を示すまでの期間をincubation period、感染してから他の(感受性を持つ)ヒトに病原体を感染させるようになるまでの期間をlatent periodと呼ぶ。この2つは病原体の種類によって異なるが、latent peirodがincubation periodより短い場合(麻疹など)は、発症時にはすでに他のヒトを感染させている可能性がある[1]。
潜伏期間の例
記載はおよそであり、個人差(特に生体の免疫力)により大きく左右される。
- インフルエンザ - 1〜3日
- 水痘(みずぼうそう)- 2〜3週間
- 流行性耳下腺炎(おたふくかぜ)- 2〜3週間
- 風疹 - 2週間
- 麻疹(はしか)- 2週間
- 結核 - 4〜8週間
- 日本脳炎 - 1〜3週間
- エイズ - 数年〜数十年
関連項目
- 感染症
- 伝染病
- 潜伏感染
- 不顕性感染 - 感染していても臨床的に症状が確認されない感染
- 無症候性キャリア - 病気に無自覚なウイルスキャリア、宿主。感染を拡大させるスーパー・スプレッダーともなる。例:メアリー・マローン
- 前駆症状 - 症状が出る前触れ
- ウインドウ期(ウインドウ・ピリオド) - 感染してから検査機器で検出できるようになるまでの空白期間。この期間はウイルスが少量で見逃しが発生する。
脚注
- ^ 平松啓一・中込治 編『標準微生物学』(第10版)医学書院、2009年、546頁。ISBN 978-4-260-00638-5。
潜伏期間
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/05/17 02:48 UTC 版)
平均すると数十時間とされているが、患者の健康状態、摂取菌量、菌株の種類の違いにより発症するまでの期間は大きく左右されると考えられるため、その幅は数時間から概ね3ヶ月長い。
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潜伏期間
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 17:12 UTC 版)
「新型コロナウイルス感染症 (2019年)」の記事における「潜伏期間」の解説
潜伏期間は 1日 - 14日間とされ、世界保健機関は平均値を 5日 - 6日、アメリカ疾病予防管理センター(CDC)は中央値を 4日 - 5日としている。 ある感染者の発症(1次症例)から2次感染者の発症(2次症例)までの発症間隔は 3.5日 - 5.9日と見られており、潜伏期間に感染能力を持つ可能性が指摘されている。
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潜伏期間
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/08 09:46 UTC 版)
安政6年(1859年)より、水戸藩士・高橋多一郎、金子孫二郎を中心として、直弼襲撃と薩摩藩兵上京の計画が図られていた。安政7年(1860年)に入り、幕府からの密勅返納の圧迫が強くなったことにより、計画は具体化していった。高橋多一郎は京における薩摩藩兵挙兵との調整・指揮を、金子孫二郎は江戸における直弼襲撃計画の立案・指揮を担うこととなった。 襲撃関係のうち国許在住者の江戸入りは、先に江戸に入っていた者、数人で連れ立って江戸入りした者、単独で来た者と様々であるが、おおよそ安政7年の2月中に江戸に入った。 計画首謀者の水戸藩士・金子孫二郎は2月18日夜、嫡男・勇次郎や、同藩士・稲田重蔵、 佐藤鉄三郎、飯村誠介らを伴って水戸を発ち、江戸へ向かった。同日、水戸藩庁が金子孫二郎、高橋多一郎、関鉄之介らに召喚命令を出したため、長岡屯集の藩士らはこれを聞いて憤激し、20名程が一挙に水戸へ押し寄せた。藩の方でも兵士数百名を出していたので、水戸・紺屋町で長岡勢と衝突、互いに斬り合いとなった。このとき林忠左衛門を初め、長岡勢にも2、3人の負傷者が出た。孫二郎らは、笠間、結城、古河を経て、草加より王子へ向かい、25日、江戸へ着いた。翌26日薩摩藩士・有村雄助と有村次左衛門兄弟の計らいで三田・薩摩屋敷へ移り、謀議を重ねた。この屋敷は江戸にいたはずの在府組が薩摩へ帰国していたので、がら空きだった。 水戸藩士・関鉄之介へも2月18日、召喚状が水戸藩庁から届いた。しかし、関は既に早朝、自宅を抜け出し江戸へ走り、19日江戸に入った。関は水戸に妻子があったが、江戸の芸妓・滝本いのと情を通じ、京橋北槇町にあった滝本の家へ寄宿した。 幕府の警戒が厳しくなったのを知り、彼らは一か所に多数で泊まれば疑われるのを予想、宿泊する藩士の組み合わせを変えるなどを思案。海後嵯磯之介は江戸到着の2日後、品川へ宿を移した。関鉄之介は浅草、吉原、京橋へ転々とした。これらにもかかわらず、彼らは一様に町奉行の目をかわすのに苦労していた。 薩摩屋敷では金子孫二郎らと有村兄弟が談義を重ねた。まず彼らは水戸・薩摩とも大量参加者は見込めないことを再確認し、当初予定の襲撃期日を延期した。標的は、候補に挙げていた直弼側近の老中で陸奥磐城平藩主・安藤信睦(のち、信正と改名)や同じ溜間詰の讃岐高松藩主・松平頼胤を外し、直弼一人に絞り込んだ。 3月1日、金子孫二郎は日本橋西河岸の山崎屋に、関鉄之介や斎藤監物、稲田重蔵、佐藤鉄三郎、薩摩藩士・有村雄助、そして薩摩藩との連絡役の水戸藩士・木村権之衛門を呼んだ上で、挙行は3月3日とし、襲撃は登城中の直弼を桜田門外で襲うべし、と最終決断を下した。この他に金子は、武鑑を携え四、五人を一組とし相互連携すべし、まず先供を討つべし、駕籠脇が狼狽する隙に大老を討つべし、大老の首級を挙げるべし、負傷者は切腹か閣老へ自訴すべし、その他の者ただちに薩摩藩との次の義挙計画の約束通り京へ赴くべしと定めた。また、できるだけ生き延びて次の仕事の機会を待つ、という申し合わせも行った。さらにこの時、襲撃の役割と斬り込み隊の配置も定めた。金子は全体統率、関は現場指揮、彼らは斬り込み隊へ加わらず皆の監督役とし、水戸藩士・岡部三十郎と畑弥平は結末を見届けたのち、品川の川崎屋に待機した金子へ結果報告する事とした。斬り込み隊の配置は、直弼邸へ向かって右翼即ち江戸城の堀に面した側へ神官・海後嵯磯之介や水戸藩士・広岡子之次郎、森山繁之介、稲田重蔵、佐野竹之介、大関和七郎。左翼即ち豊後杵築藩(藩主・松平親良)邸側へ水戸藩士・山口辰之介、杉山弥一郎、増子金八、黒沢忠三郎、薩摩藩士・有村次左衛門とした。後衛に神官・鯉淵要人、水戸藩士・蓮田一五郎、広木松之介を配し、前衛には水戸藩士・森五六郎を当てた。稲田重蔵は当初、金子に京への同行を命じられたが、本人の希望により固辞して襲撃参加した。また神官・斎藤監物は襲撃に直接参加せず、事変後に一同を率い、連名の『斬奸趣意書』を然るべき藩邸へ提出する役目とされた。 3月2日の夕刻、品川宿・相模屋にて訣別の酒宴が催された。この夜列席したのは襲撃参加者18名を含む19名だった。面々が一堂に会するのはこれが最初で、しかも最後にもなった。期日が遂に明日と決まった中、面々は改めて成功を誓い、酒盃を交わした。また、藩に累が及ばないよう、この夜明けまでに、藩士・神官の身分に応じ、除籍願を届けた。
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潜伏期間
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/13 07:42 UTC 版)
「2010年日本における口蹄疫の流行」の記事における「潜伏期間」の解説
口蹄疫の潜伏期間は「口蹄疫ウイルスと口蹄疫の病性について」によれば牛6.2日、豚10.6日。ウイルスの量が少なければ潜伏期間が長く、多ければ短くなる。必ずしも一定ではない。最新の資料では潜伏期間は2 - 14日であり、3 - 5日の場合が多い。 感染した日時と、発症する日時に差がある。 また、「豚の飼養密度が高い地域に発生すると、地域のウイルス汚染度が高まり、空気伝播や風による伝播が起こりやすくなって、防疫が困難になるとの指摘がある」との記述もある(最新の権威ある文献によると、「1頭の感染した豚は毎日4億個のウイルス粒子を放出し、たった10粒で牛を感染させることができる」という)。 えびの市での症状確認、豚への感染確認と大きな変化の見られた27日9例目・10例目についてウイルス量による潜伏期間の変化を無視して考えた場合は以下のように考えられる。豚の症状が確認された10例目は5月15日 - 16日の時点で感染していた可能性が高い。 えびの市への感染が確認された9例目は5月20日 - 21日の時点で感染していた可能性が高い。
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潜伏期間
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 04:40 UTC 版)
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潜伏期間と同じ種類の言葉
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