観光地化
観光地化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 16:55 UTC 版)
「白川郷・五箇山の合掌造り集落」の記事における「観光地化」の解説
世界遺産登録後、急激に観光客が増加している。五箇山は世界遺産登録直後に約60万人から90万人に急増したが、その後やや落ち着き、2001年(平成13年)以降は70万人から80万人くらいで推移している。 これに対し白川村は、世界遺産登録の数年前には年間観光客数が60万人台後半で推移していたが、2002年(平成14年)には150万人を突破した。 急激に進んだ観光地化は、地域社会の生活面で様々な問題を引き起こしている。実際に人が住んでいることへの配慮に欠ける観光客が勝手に戸を開けるなど、住民のプライバシーを尊重しない重大なマナー違反もしばしば指摘される。 また、生活道路にまで観光客の自家用車が多く見られ、無断駐車も含め、住民生活に悪影響を及ぼしている。そうした混雑が観光地の良さを減殺しているとも指摘されている。白川村では2001年(平成13年)の交通社会実験を皮切りに交通対策に取り組んでおり、2009年(平成21年)9月から大型バスの通行規制が敷かれている。 観光客の増大を受け、白川村では旅館、土産物屋、喫茶店などが次々と建てられた。昭和40年代の景観を守るのが理想でも、それ自体がかなり困難になっているという認識は、世界遺産登録から2年と経たない時点で、関係者から示されていた。こうした観光客目当ての建物群は景観保護との関連で問題視され、観光客がひしめいて騒々しいこととあわせ、かつての物静かな山村の景観が失われた度合いは危機遺産に相当するレベルと見なす者もいる。他方で、白川村ではすでに第一次産業従事者が激減しており、高速道路全通に伴い従来の公共事業も減少していくとなれば、今後さらに観光業への依存度が高まるという予測もある。 なお、観光客の増大とは逆に一人当たりの滞在時間は減っており、宿泊客はむしろ漸減傾向にある。特にトイレ休憩・ゴミ捨て休憩を兼ねて短時間しか滞在しない団体旅行客の存在は、村にとって環境悪化を招くだけという指摘もある。滞在時間減少の理由としては、観光客の側に世界遺産の価値を深く理解しようという意思が欠けていることや、交通の便が良くなったことで往復が容易になったことなどが指摘されている。 西側から見下ろす荻町集落。瓦屋根などの民家と合掌造りの建物が混在する。手前の橋は庄川に懸けられた「であい橋」。(2010年(平成22年)4月) 「であい橋」上で列をなす観光客。(2015年(平成27年)2月)
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観光地化
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1989年、それまでタブー視されてきた二・二八事件を正面から取り上げ、台湾で空前のヒットとなった映画『悲情城市』(侯孝賢監督)のロケ地となったことにより、再び脚光を浴びるようになる。映画を通じて、時間が止まったようなノスタルジックな風景に魅せられた若者を中心に多くの人々が訪れ、メディアにも取り上げられるなど、台湾では1990年代初頭に九份ブームが起こった。 ブームを受け、町おこしとして観光化に取り組んだ結果、現在では街路(基山街など)に「悲情城市」の名前を付けたレトロ調で洒落た喫茶店や茶藝館(ちゃげいかん)、みやげ物屋などが建ち並び、週末には台北などから訪れる多くの人々で賑わっている。また、世界の旅行ガイドブック(台北付近)にも多数紹介されており、今では台湾を代表する観光地のひとつとして定着している。 宮崎駿のアニメ映画『千と千尋の神隠し』のモデルになったという噂もあり、日本の観光客への知名度が高まったほかに台湾でも知られ、「神隠少女 湯婆婆的湯屋」の看板がモデルとされる茶屋のそばに掲げられている。一方、スタジオジブリや宮崎により、これは公式に否定されている。 2008年11月末、経済部の中小企業処は「(民國)97年度革新科学技術の応用群聚計画」を実施し、九份地区に群聚のウェブサイト、無料の無線Wi-Fi(利用範囲は基山街と豎崎路の人気があるスポットの約90%を含む)、ネット商店、リアルタイム映像システム(九份風景と人潮および天気を見られる)、QRコードシステム(商店と商品の紹介)などの関連技術を導入し、古い町の九份でも現代的なデジタル技術を活用できるようになっている。
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観光地化
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2005年には島根県の竹島の日に反発した韓国政府は韓国人観光客の入島を解禁し、3月28日に一般観光客が初めて竹島に上陸した。2013年9月時点では、1日平均805人もの人が入島している。鬱陵島から定期運航している観光船があり2時間程度で行くことができる。鬱陵島との間に水陸両用機による航空路を開設する計画もある。 竹島に入島するためには、「独島は韓国の領土」と書かれた紙に署名しなければならない。韓国側発表によれば、2005年から2010年までの間で日本人観光客も70人程度上陸している。また、韓国では竹島へ上陸して申請すれば「独島名誉住民」として登録され名誉住民票が発行される。現在、名誉住民の数は日本人を含む7万人を越えている。 日本の外務省は日本人の渡航について、「韓国による竹島の不法占拠が続いている状況の中で、我が国国民が韓国の出入国手続に従って竹島に入域することは、当該国民が竹島において韓国側の管轄権に服することを認めたとか、竹島に対する韓国の領有権を認めたというような誤解を与えかねません。そのような入域を行わないよう、国民の皆様のご理解とご協力をお願いします。」としている。また航路を運営するフェリー会社は日本人と判明した者へのチケット販売を行わない旨を告知している。
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観光地化
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1970年代の2度のオイルショックを経て日本は安定成長期に入り、一億総中流が定着した。 1980年(昭和55年)7月12日、「下郷町伝統的建造物群保存地区保存条例」が制定。同条例に基づき決定された伝統的建造物群保存地区は1981年(昭和56年)4月18日、国の重要伝統的建造物群保存地区として選定された。旧宿場としては長野県の妻籠宿および奈良井宿に続いて全国で3番目の選定である。同年5月14日には「下郷町伝統的建造物群保存地区保存条例施行規則」も制定された。同年9月、「大内宿保存会」が設立されて住民による町並み保存活動が始まり、「大内宿を守る住民憲章」も制定された。 1984年(昭和59年)9月5日には、旧本陣を復元した建物に「下郷町町並み展示館」(大内宿町並み展示館)が開館した。積雪期に観光客が減少する対策として、1986年(昭和61年)より2月に「大内宿雪まつり」を開催するようになった。大内宿最寄りの会津線・湯野上温泉駅が、国鉄分割民営化に伴って1987年(昭和62年)4月1日に日本国有鉄道から東日本旅客鉄道に、さらに同年7月16日に会津鉄道(第三セクター鉄道)に承継されたが、このとき同駅舎も茅葺屋根に建て替えられ、同年12月19日に完成した。 並行して、1982年(昭和57年)から1988年(昭和63年)にかけて旧宿場に沿って道路の新設が行われ、1989年(平成元年)から翌年にかけて電柱・電話柱・テレビ共同受信柱・地区有線放送柱を新設道路に移設し、「裏配線」により旧街道の無電柱化を実現した。その後、旧街道のアスファルト舗装を撤去して土の道を復元したり、観光駐車場を新設したりして環境整備をした。すると1992年(平成4年)、第1回「美しい日本のむら景観コンテスト」の文化部門で、農林水産大臣賞を受賞した。1996年(平成8年)には「大内宿の自然用水」として「日本の音風景100選」に選定。1998年(平成10年)には「大内宿結いの会」が結成され、住民による茅葺屋根の復元や葺き替え技術の伝承が開始された。2004年(平成16年)には「美しい日本の歩きたくなるみち500選」、2005年(平成17年)には「手づくり郷土賞」(大賞部門)を受賞し、「知っていそうで知らない日本の文化の発見」として「わたしの旅100選」にも選定された。 観光客数は、1985年(昭和60年)に約2万人であったが、バブル景気が始まると急増し、1990年(平成2年)10月12日に会津鉄道が野岩鉄道会津鬼怒川線および東武鉄道鬼怒川線・日光線・伊勢崎線との直通運転を開始すると、翌1991年(平成3年)には50万人を突破した。その後は年間50万人前後で推移していたが、1997年(平成9年)に磐越自動車道が全線開通すると60万人を超えた。2003年(平成15年)に県道下郷会津本郷線氷玉バイパス(大内宿こぶしライン)が開通し、翌2004年(平成16年)に大きな観光誘客能力があるとされて東北地方で注目されていたNTTドコモ東北のオリジナルCMシリーズの「娘の決意」篇において、雪の当地で宮崎あおいが子供達と雪合戦をするシーンが挿入されると、観光客数は80万人を超えて増加していった。 2005年(平成17年)のあいづデスティネーションキャンペーンにおいてさまざまにPRされると、2006年(平成18年)には90万人、2007年(平成19年)には100万人を突破し、県外からの観光客が90%を占める県内有数の観光地となった。観光客の増加に伴い、周辺道路に渋滞が発生するようになったため、2009年(平成21年)2月23日に「大内宿周辺地域渋滞対策協議会」が設立された。
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観光地化
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三角市場は立地がJR小樽駅の隣であることから、観光地と化す傾向が強い。小樽運河の保存運動が全国に知られ、小樽が観光地へと変わり始めた1980年代から、三角市場にも観光客が訪れるようになった。 1990年(平成2年)以降の頃より観光客がさらに増加し、それに伴って地元客が減少している。観光客向けに、カニを中心とする店も多い。2000年代において、海産物・鮮魚店で、カニを扱っていない店はなく、観光客相手のために開業当初は扱っていなかったカニの販売を開始するようになった店もある。2010年代以降は特に、土産を買い求める客より、市場の中で海鮮丼を食べて帰る観光客が急増している。 2021年(令和3年)時点において、小樽市民の利用は2割ほどである。「地元の『まな板』のような市場にしたい」との声、「地元客の減少により、生活感の漂う市場の雰囲気を楽しみたい観光客も減少する」と危惧の声も聞かれる。観光客相手の駆け引きなど、人との話が不得意で、三角市場から別の市場に移る者もいる。観光地としての市場か、地元を重視する小樽市民のための市場か、またはその両方を尊重するかのジレンマが存在している。
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観光地化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/05/14 13:59 UTC 版)
ベトナム戦争が終結してから後、地下道は観光地となっている。今日では観光客の目的地の1つともなっており、旅行会社などによるツアーを利用して訪れることも可能である。
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観光地化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/03 21:15 UTC 版)
バトゥカル山のスバック景観を構成するジャティルイの棚田は、主要観光地から離れていたために観光地化が限定的だった。観光シーズンには1日に200人程度が訪れ、その客たちからは入村料を徴収していたが、世界遺産登録前は宿泊施設もなく、観光客向けにはレストランが1軒あるだけだった。しかし、世界遺産となることで、水田が観光施設に変わってしまう場所も出るのではないかという懸念も表明されている。
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観光地化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 23:12 UTC 版)
中央自動車道の開通により、三大都市圏からの交通の便が良くなったことから、外部資本による観光地としての開発が進んでいる。例えば、1984年(昭和59年)開場の野辺山スキー場(後のレーシングキャンプ野辺山、2008年より休止)、1992年(平成4年)開場の野辺山ゴルフ場が挙げられる。 富士山を望む
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