旧街道とは? わかりやすく解説

旧街道

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/14 00:58 UTC 版)

鳴子峡」の記事における「旧街道」の解説

荒雄川江合川)沿いには、少なくとも戦国時代末期から中山越出羽道出羽海道)と呼ばれる街道整備されていた。この街道は仙台藩宮城県)の大和町新庄藩山形県)の最上町を結ぶもので、奥州街道から分岐して江合川沿って遡り堺田越奥羽山脈をこえて最上川流域通じていた。この街道は最終的に最上川西廻海運水運によって大坂江戸とを結ぶ交通路一部成していた。 街道江合川左岸を登ってきて、大谷川との分岐点からは尿前(しとまえ)の関所尿前宿を経て大谷川沿いに入っていた。鳴子峡左岸の崖上は緩斜面広がっており、街道はここに通じていた。平安時代末期奥州合戦の際には奥州藤原氏がここに城柵築き交通の要衝守備した伝えられ江戸時代中期天明期に遺構があったという。中世には大崎氏もここに館を築いていたと伝わる。 この尿前宿・尿前関を古来から和歌詠まれてきた「いはての関」に比定する説もある。松尾芭蕉の『おくのほそ道』や富田伊之の『奥州紀行』にも当地描かれている。江戸時代初期には、かなりの難路だったために通行多くはなかったが、中期以降この街道の利用客増え街道や駅宿、温泉発展した考えられている。

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旧街道

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/29 04:43 UTC 版)

河内山本」の記事における「旧街道」の解説

山本新田北端付近中心部および南端付近で旧街道が東西横切っている。 十三街道 - 北山本バス停付近信号のある交差点で横切る。 立石街道 - (前述) 信貴道(信貴山越) - 高安駅交差点で横切る。玉串川南西袂に道標存置されている。 当地南北に貫く道路は、新田開発時に玉串川沿いに設けられた。 また、新田と旧農村地帯境界にも古道現存し、特に東側については御野縣主神社以北花園ラグビー場付近までかつてはほぼ一本道になっていた(現在は花園駅北側再開発ビル建設に伴い分断された)。前者当地内で府道八尾茨木となっている。後者河内花園駅付近府道指定されている(本地からは離れている)。

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旧街道

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/06 15:25 UTC 版)

石畳」の記事における「旧街道」の解説

難所江戸幕府により石畳による整備命じられた。旧東海道では、箱根菊川宿当時石畳一部現存している。菊川宿連なる金谷宿のものは明治以降工事などで取り壊されていたが、平成3年1991年)に430mの石畳復元された。また、主に荷車通行用の側道として設けられ車石もあった。

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旧街道

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 17:14 UTC 版)

志賀町」の記事における「旧街道」の解説

外浦街道能登外浦街道) :国道249号のうち、羽咋郡近辺部分前身浜街道 中道通 土田街道加茂地区安津見から奥山峠を越えて田鶴浜通じる。 得田街道(とくだかいどう) :堀松地区吉田から七尾西湾大津通じる。

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旧街道

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/27 02:22 UTC 版)

信貴山越」の記事における「旧街道」の解説

信貴山朝護孫子寺開かれ以来、そこへ至るいくつかの道筋整備された。とくに大阪側からはいくつものルート整備された。(下記説明については現在の沿道施設の名称を用い、現在辿ることのできるルート説明する。)

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旧街道

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/26 04:01 UTC 版)

保土ヶ谷宿」の記事における「旧街道」の解説

東海道の他、以下の街道保土ヶ谷宿周辺から分岐していた。 金沢鎌倉道 金沢横町 - 清水が丘 - 弘明寺 - 上大岡 - 杉田( - 金沢八景) - 円海山 - 鎌倉 八王子追分 - 町田 - 八王子 - 甲州街道 大山道相州道大門 - 川島 - 二俣川 - 大和 - 厚木 - 大山

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旧街道

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/13 03:41 UTC 版)

座間谷戸山公園」の記事における「旧街道」の解説

府中街道 長屋門横の本堂坂を上り伝説の丘の南側通ったあと、公園北側抜ける道が府中街道である。街道沿いには、庚申塔道祖神馬頭観音などが残されている。 巡礼街道・星の谷道(ほしのやみち) 公園南側現在の神奈川県道42号藤沢座間厚木線から南入口を通りシラカシ観察抜ける道が巡礼街道・星の谷道である。シラカシ観察に残る旧街道は鬱蒼とした雑木林を通る細い坂道で、古い姿を髣髴とさせる佇まいである。巡礼街道は、坂東観音霊場14番札所弘明寺(横浜市南区)方面から、坂東観音霊場8番札所星谷寺観音堂へ、巡礼往復した道である。星の谷道は、入谷地区人々小松原地区などの市域東部開拓地向うための道である。南入口から東へ370mにある「わかされ」の交差点で、星の谷道は東へ巡礼街道東南向うまた、南入口横にある庚申塔は、明和5年(1768年)に建立されたもので、「三峯台の庚申」そばに大きながあったことから「庚申」とも呼ばれる具像塔である。正面青面金剛像と三猿彫られ、塔の左側には「右江戸つるまみち 青面金剛供養塔大山あつぎみち」、右側に「右ほしのや道 明和五戊子四月吉祥日 相刕高座郡座間入谷」と刻まれて、道標兼ねている。なお、2020年行われた県道42号線の拡張工事にともない、旧街道を挟んだ反対側へ移設された。

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