二・二八事件とは? わかりやすく解説

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二・二八事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/02 13:15 UTC 版)

二・二八事件(ににはちじけん, 台湾語白話字: Jī-jī-pat Sū-kiāⁿ)とは、1947年民国36年)2月28日台湾省台北市で発生し、その後台湾全土に広がった、中華民国政府による長期的な白色テロ、すなわち民衆への弾圧虐殺の引き金となった事件[1]




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二・二八事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/21 14:29 UTC 版)

私立延平高級中学」の記事における「二・二八事件」の解説

最初学期終了し冬休み間中1946年2月27日台北市延平北路での闇タバコ取締り事件発端に二・二八事件が発生した当時延平学院在籍していた学生国立台湾大学国立台湾師範大学学生連絡取り事態対応した。しかし数日後軍隊学校内進軍学内から多数武器発見されたことを理由閉鎖された。

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二・二八事件

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高雄市立高雄高級中学」の記事における「二・二八事件」の解説

1947年2月28日発生した二・二八事件では、高雄いくつかの学校が軍と市民の間で起こった対立巻き込まれたが、高雄一中そのうち一校であり、多く学生団体集まった当時校長景元一部生徒武装集団組織するのを阻止しようとしたが失敗し他の生徒の安全を守るために授業中断発表せざるを得なかった。同年3月6日午後2時、当時高雄要塞司令であった彭孟緝は、高雄一中高雄駅などの重要な所へ攻撃部隊命じた砲撃音を聞いて軍隊到着知った生徒中には戦闘計画した者もいた。 二・二八事件後、景元教育局から生徒への対応に問題があるとされ、台北市第二女子中学異動することとなった1947年4月教育庁高雄二中の校長であった林一に、4月2日から高雄一中校長となり、高雄一中生徒一部高雄二中へ転校させるよう命じた同年9月、両校は統合され、「台湾省高雄中学となった

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二・二八事件

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菸酒公売局嘉義分局」の記事における「二・二八事件」の解説

1947年の二・二八事件では支局庁舎の門窓が砲兵要塞として使用されていた。4月6日局長の周必璋が逮捕され

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二・二八事件

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中華民国の歴史」の記事における「二・二八事件」の解説

詳細は「二・二八事件」を参照 行政公所要職新来外省人独占した事、および公所政府軍腐敗激しかった事は、それまで台湾にいた本省人台湾人)の反発招き1947年2月28日本省人民衆蜂起する二・二八事件が起きた。これに対して行政公所政府軍徹底的な弾圧をもって臨み台湾人知識階層親日派共産主義者中心に数万人を処刑した推定されている。 「動員戡乱時期臨時条款」も参照 国民党政権政治・経済教育マスコミなど独占進め同年中に台湾省政府発足した1949年蔣介石国共内戦敗れた兵隊崩壊状態にあった中華民国政府引き連れて台湾撤退してきた後は、事実上中華民国中央政府台湾直接統治を行うようになった

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二・二八事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/14 11:28 UTC 版)

ウオグ・エ・ヤタウヨガナ」の記事における「二・二八事件」の解説

1947年2月28日事件の際、嘉義市混乱陥ったため、嘉義二二八處委会(事件処理委員会)は、嘉義法と秩序維持するためにウオグを表に立たせようと考えた。ウオグは当初介入したくなかったが、部落の他の指導者ヤプスヨグ・エ・ユルナナ(湯守仁(中国語版))が参加するつもりだったため、双方論争して最終的に出動することを決めた湯守率い部隊は、最初に嘉義紅毛弾薬庫今日嘉義潭にある)を攻め落とし弾薬得たその後一方グループ嘉義市法と秩序維持し、もう一方チーム嘉義民兵中国語版)と協力して嘉義水上空港取り囲んで封鎖し軍隊増援阻止した包囲4日後、嘉義處委会は政府交渉することを決定した。ウオグは弾薬手に入れ故郷守れれば良い考え部隊戦闘からの撤退命じた。二・二八事件終結後、ウオグは逮捕されたが、ロシン・ワタン(林瑞昌)の保護下で釈放された。1950年治安部隊山間地域での匪諜(共産党スパイ調査開始した10月湯守仁は自白書に署名しウオグ・エ・ヤタウヨガナ一緒に政府命令実行し反共抗俄(ロシア事業のために断固として戦う」と誓い機関砲弾、7mm機関銃実包30箱、89式榴弾1箱、機関銃実包2箱、迫撃砲弾5箱、手榴弾2箱、擲弾筒4個などの武器供出した。

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二・二八事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/14 05:48 UTC 版)

彭孟緝」の記事における「二・二八事件」の解説

二・二八事件が発生したとき、彭孟緝高雄要塞司令に就いていた。当時国民政府監察院報告によれば台北から始まった動乱3月3日高雄飛び火し100人ほどの暴徒が3台のトラック引き連れて市街暴れまわったという。同日の夜8時には塩埕区北野集った3,000~4,000人が警察局包囲し外省人対する掠劫や暴行が行われた。彭孟緝は、市内700800人に及ぶ外省籍の公務員高雄要塞避難し逃げ切れなかった者は台湾省高雄第一中学校中国語版)に閉じ込められたと証言している。事態重く見た台湾省行政長官公署長官陳儀は、3月4日彭孟緝台湾南部防衛司令任じ鳳山駐在第21師団輸送大隊第3大隊を含む南部全軍指揮権与えた。 さらに彭孟緝は、この群衆3月5日高雄要塞司令部攻撃し始め合わせて後方病院包囲し銃器物資要求したがこれは達成されなかったと回想している。さらに、ガソリン染み込ませた紐を用いて山に火を放つとする噂も飛び交ったため、要塞司令部軍隊派遣し山下町一帯現在の鼓山路(中国語版))を封鎖した高雄市長の黄仲図(中国語版)、高雄市参議会議長の彭清靠(中国語版)、苓雅区長の界(中国語版)および高雄第一中学校自衛隊中国語版)代表の涂光明中国語版)、范滄、曽豊明山下町封鎖を受け、彭孟緝との面会希望したがこれは拒否された。3月6日、黄市長は再び面会要求し同日午前9時より応接室にて彭は黄市長代表者(このとき界は不参加)と面会したこの際、涂は9項からなる和平條款」を提出したが、これは拒否され、彼らは拘束された。彭は黄市長要求に応じて午後2時より300余りからなる1個大隊下山させて高雄市政府攻撃加え同時に第21師団第3大隊高雄駅高雄第一中学校へ向かわせ、民間人対す武力鎮圧開始した下山した1個大隊午後4時ごろ高雄要塞帰還し第3大隊高雄市政府高雄駅高雄第一中学校防衛当たった要塞拘束されていた涂光明、范滄、曽豊明には3月7日死刑判決下され3月9日要塞内で射殺された。なお、界は一連の反乱首謀者とされ、3月21日処刑されている。3月12日には第21師団帰還した

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二二八事件(1947年)

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高雄の歴史」の記事における「二二八事件(1947年)」の解説

詳細は「二二八事件」を参照 1947年2月28日、二二八事件が台北発生した事件高雄にも飛び火し3月3日には高雄市内で騒乱官庁への攻撃始まった高雄第一中学現在の高雄中学)及びその他の学校学生自衛隊組織したが、軍を攻撃し寿山撤退させた。市参議院地方有力者3月5日に「高雄二二八事件処理委員会」を組織し事態収束当たろうとしたが、高雄要塞司令彭孟緝鼓山一帯での発砲愛河河畔高雄市体育場現在の仁愛公園)への砲撃による示威行動命じていた。 3月6日市長である黄仲図を含む協議団は寿山高雄要塞司令部訪問したが、軍により拘束され内3名が射殺された。まもなく彭孟緝全軍対し市内突入し叛乱鎮圧命令。軍を3路に分かち高雄駅第一中学近郊大規模な民衆対す無差別発砲行った鎮圧行動3月7日終了したが、その無差別攻撃から彭孟緝は「高雄屠夫」と称されるようになった

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