霧社事件
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霧社事件(むしゃじけん)とは、1930年(昭和5年)10月27日に日本統治時代の台湾の台中州能高郡霧社(現:南投県仁愛郷)のセデック族が起こした抗日反乱事件である。台湾総督府によって鎮定されたが、翌年4月に別部族が反乱に加わった部落を襲撃し(第二霧社事件)、生き残ったセデック族は強制移住させられた[1]。
注釈
- ^ この巡査は暴動の初めに殺害されている[3]。
- ^ 事件後も生き延びた高永清は、「どうせ負けるに決っている戦争と云うことはみんなは知っていた 只人間として扱われないでいることがシャクにさわって反抗しただけのことである 死ぬことは眼の前にははっきり見えている それで非戦闘員即ち女子供は争って縊死を遂げた 戦闘のできる人は正装して いつでも死ねるように一番大切な着物をつけて戦った」と回想している[5]。
- ^ 工賃は漢族より安かったうえに支払いも滞りがちであり、農期を無視して命令が出されて耕作に支障をきたし、命令に従わないと数倍の罰役が課された[5]。
- ^ 住民の誇りである狩りに使う銃は警察の統制下に入り、警察官の横暴や女性関係(警察官の先住民族女性との結婚は懐柔策として奨励されていたが、任期を終えた警官は妻子を残して立ち去った)も顰蹙を買った[5]。
- ^ 原住民の成人男子のこと。
- ^ 一郎は妻と稚児と心中し、身重であった二郎の妻、オビン・タダオ(花岡初子)は生き残り[2]、聞き書きも発表されている。
- ^ 戦闘終結の4年後、モーナ・ルダオの遺骨が山で発見された[9][10][11]
- ^ 警察関与については江川博通『霧社の血桜』にて証明されたという。
出典
- ^ a b c d e "霧社事件". 日本国語大辞典. コトバンクより2022年6月22日閲覧。
- ^ a b c d 詳説台湾の歴史 台湾高校歴史教科書. 雄山閣. (2020-2-27). pp. 117-118. ISBN 978-4-639-02639-6. OCLC 1158390939
- ^ 中川 & 和歌森 1980, p. 115.
- ^ 『図説台湾の歴史』116頁。
- ^ a b c d e 大東, 和重 (2020-2-25). 台湾の歴史と文化 六つの時代が織りなす「美麗島」. Chuokoronshinsha. pp. 17-24. ISBN 978-4-12-102581-4. OCLC 1144541122
- ^ 向山 & 1987, p. 1081.
- ^ 伊藤之雄『政党政治と天皇』327頁
- ^ 中川 & 和歌森 1980, pp. 174–186.
- ^ 向山 & 1987, pp. 1084–1090.
- ^ 映画『賽德克巴萊』
- ^ 中川 & 和歌森 1980, p. 121.
- ^ a b 中川 & 和歌森 1980, p. 120.
- ^ 向山 & 1987, p. 1091.
- ^ 中川 & 和歌森 1980, pp. 131–132.
- ^ 中川 & 和歌森 1980, p. 129.
- ^ 向山 & 1987, p. 1087.
- ^ 中川 & 和歌森 1980, p. 127.
- ^ 春山明哲「霧社事件と毒ガス作戦 (台湾)」、『世界戦争犯罪事典』、文藝春秋、2002年8月10日、ISBN 4-16-358560-5、64頁。
- ^ 向山 & 1987, p. 1102.
- ^ 中川 & 和歌森 1980, pp. 138–142.
- ^ 中川 & 和歌森 1980, p. 139.
- ^ 中川 & 和歌森 1980, pp. 142–147.
- ^ a b c d e “(下)セデック族を徹底的に追い詰めた日本”. Mainichi Daily News. (2019年10月26日) 2021年1月19日閲覧。
- ^ 中川 & 和歌森 1980, pp. 158–160.
- ^ 向山 & 1987, pp. 1093–1094.
- ^ 中川 & 和歌森 1980, pp. 223–224.
- ^ 向山 & 1987, pp. 1079–1081.
- ^ 向山 & 1987, pp. 1096–1101.
- ^ 向山 & 1987, pp. 1104–1105.
- ^ a b c d “(上)最大の抗日蜂起 頭目モーナ・ルーダオの彫像は写真スポットに”. Mainichi Daily News. (2019年10月26日) 2021年1月19日閲覧。
- ^ 中川 & 和歌森 1980, pp. 132–133.
霧社事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 05:01 UTC 版)
詳細は「霧社事件」を参照 後期には抗日暴動事件として霧社事件が発生した。これは1930年10月27日に台中州能高郡霧社(現在の南投件仁愛郷)で、台湾原住民セデック族の頭目モーナ・ルダオが6部落の300余人の族人を率いて、小学校で開催されていた運動会会場に乱入し日本人約140人を殺害した。事件発生後総督府は原住民への討伐を決定、軍隊出動による討伐作戦を2ヶ月にわたって展開し、対立部族の協力も得た鎮圧作戦の結果700人ほどの蜂起原住民が死亡もしくは自殺、500人ほどが投降した。その後最終的に生き残った約300人は別地域に移住させられた。
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霧社事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/12 09:22 UTC 版)
モーナ・ルダオの妹はマヘボに赴任した日本人の警察巡査に嫁いだが、この巡査は後に勤務中に崖から転落し行方不明になった。モーナ側は妹が捨てられたと感じ、これが後の霧社事件の一因となったという。その他にも部族が日頃から日本側により徭役で酷使されたことや、モーナ・ルダオの長男タダオ・モーナが日本人巡査とトラブルを起こし、巡査側がモーナ側の謝罪を受け入れなかったことや、過去の日本軍の討伐に対する恨みなどから、モーナは1930年10月27日に霧社事件を起こした。 モーナはマヘボ社など霧社セデック族6社を率いて日本人を襲撃した後に山にこもり、日本軍と交戦したが11月2日に家族を自殺させ、もしくは殺害した後、自身も自殺したと伝わる。モーナの長男タダオと次男バッサオは共に戦闘に加わっていたが、まずバッサオがマヘボ社防衛の指揮中に戦死し、タダオも抗戦の末に自殺した。 モーナ・ルダオの遺体と愛銃は1934年になって発見され、産物展覧会で見世物にされた。遺骨は標本として台北帝国大学土俗人種学研究室、台湾大学考古人類学系で保存、陳列された。1973年に遺骨はようやく霧社の地に返還され、新たに造られた「莫那魯道烈士之墓」に埋葬された。 第二次世界大戦後に台湾を支配した国民政府はモーナ・ルダオを英雄扱いしたが、セデック語や日本語で育ったセデック族の人々には中国語を理解するのは難しく、事件の情報は正しく発信されなかった。
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