創建前
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「サン・ピエトロ大聖堂」の記事における「創建前」の解説
「聖ペテロの墓(英語版)」を参照 歴史学的には、ペテロがローマで殉教したとする確実な資料が存在していないので、建設地がほんとうにペテロの墓地だったかどうかについては古くから反論がある。ローマ教皇庁が1950年に行った声明に先立つ1939年からの発掘では、大聖堂地下において墓碑とトロフェウムと呼ばれる祭壇の柱が発見され、さらにネクロポリス(墓地)全容も判明した。しかし、これがペテロのものであるという確証はない。ただトロフェウムからは古くはアウグストゥス時代のコインも発見され、当時から崇拝の対象になっていた事が判明している。 現在は内部の一部も見学できるネクロポリスは、全体の長さ60mほどの通路の両側に、大小約20の家型墓所(マウソレウム)が並んでいる。ペテロの墓といわれている部分の上に「赤い壁」があり、そこにトロフェウムが築かれていた。この場所は「カンポP」と呼ばれている。ネクロポリスは現在の聖堂地下(グロッタ)の床下6m、現在の大聖堂の床からは10m下にある。「カンポP」の上にはコンフェッシオーネがあり、その奥には「赤い壁」を穿つ形で『バリウムの壁龕』が置かれている。この壁龕の真上が教皇の祭壇が位置する。これらは、ペテロの墓の位置を知らしめるための配置である。 なお、かつてここにはネロのキルクス(競技場)があり、伝説によれば64年に発生したローマ大火で罪を着せたキリスト教徒をここで見世物を兼ねた数々の残虐な刑に処したといい、伝承ではこの中にペテロもいたと伝わるため、しばしばペテロ殉教の地とされることもある。しかし、15世紀には、ペテロが逆さ十字に架けられたのは「黄金のヤニクルム」、つまりジャニコロの丘のモントリオ(サン・ピエトロ・イン・モントリオ教会のある場所)であるとされ、現在は、そこにドナト・ブラマンテの設計したテンピエットが建設されている。
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創建前
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1336年(延元元年 / 建武3年)5月25日:楠木正成、没。 応安~永和(1368-1379):〈『太平記』成立。〉 文禄年間:摂津坂本村の楠木正成の墓所、除地になる(楠公墓の初見)。 1646年(正保3年):尼崎藩主青山幸利、墓所に五輪塔を建てる。 1664年(寛文4年):〈福岡藩士貝原益軒、墓所の建碑計画を立てるが、取りやめる。〉 1670年(寛文10年):〈加賀藩主前田綱紀、狩野探幽に桜井駅決別の図を描かせ、朱舜水にその賛を書かせる。〉 1685年(貞享2年):水戸藩士佐々宗淳、摂津坂本村の広厳寺を訪れ、千巖と会う(建碑の請願を受ける?)。 1691年(元禄4年):水戸藩主徳川光圀、摂津坂本村の墓所に碑石を立てることを決める。 1692年(元禄5年)6月2日:徳川光圀の命を受け、佐々宗淳が広厳寺を訪れ、建碑作業を始める。 1692年(元禄5年)10月9日:楠木正成墓碑の建立が完了する。 1692年(元禄5年)11月22日:墓碑に朱舜水の碑文を刻む(湊川の楠木正成墓碑の完成)。 1695年(元禄8年)11月25日:水戸藩により、広厳寺の堂宇と墓碑の覆堂を造営。 1735年(享保20年)3月21日:有志、墓所で400年祭を行う。 1751年(宝暦元年):尼崎藩主松平忠名、墓所に燈籠1対を寄進。 1751年(宝暦元年):楠伝四郎、墓所の参道を造営。 1768年(明和5年):尼崎藩主松平忠昆、墓所に燈籠1対を寄進。 1809年(文化6年):尼崎藩主松平忠宝、墓所に燈籠1対を寄進。 1813年(文化10年):庄屋平野本治・有志、土地を墓所に寄進して墓域拡張。 1816年(文化13年):尼崎藩主松平忠誨、墓所に燈籠1対を寄進。 1825年(文政8年):会沢正志斎、『新論』で神道の興隆と功臣の顕彰を主張する。 1834年(天保5年):会沢正志斎、『草偃和言』の中で功臣を祀ることを主張する。 1835年(天保6年):橋本藤左衛門、墓所で500年祭を行い、『嗚呼帳』を編纂する。 1842年(天保13年):尼崎藩主松平忠栄、墓所に燈籠1対を寄進。 1846年(弘化3年):西国街道に墓所への標石が再建される(以前の標石建立は不明)。 1847年(弘化4年):真木保臣、楠公祭を行う(楠公祭の初見)。 1850年(嘉永3年):〈佐賀藩の枝吉神陽、相良宗左衛門、島義勇、大木喬任らが楠公義祭同盟を結成。以後、楠公祭を毎年梅林庵で行う。〉 1851年(嘉永4年)3月15日:〈和気清麻呂に正一位護王大明神を追贈。〉 1853年(嘉永6年)5月25日:真木保臣、楠公祭を行う(以後、毎年行う)。 1854年(安政元年):〈佐賀藩家老鍋島安房、竜造寺八幡宮の境内に楠公社を建てる。〉 1856年(安政3年):〈尾張藩士田中儀兵衛、楠公祭を行う。〉 1859年(安政6年)5月:真木保臣、『経緯愚説』を野宮定功を通して朝廷に献じる。同書で古来の忠臣に神号を賜い、贈位贈官すること、またその子孫を禄することを主張する。 1860年(万延元年)2月:〈薩摩藩士有馬新七、町田家の楠公社を石谷に移して、小祠を建てる。竣工祭に大久保利通、岩下佐治右衛門、伊地知正治、有村治左衛門などが参列する。〉 1862年(文久2年)4月23日:〈寺田屋騒動。有馬新七、没。〉 1862年(文久2年)5月25日:真木保臣、楠公祭を行う。寺田屋事件の殉難者8人の神霊をあわせて祀る 1862年(文久2年):〈尾張藩国学者植松茂岳、洲崎神社の境内に楠公・物部守屋・和気清麻呂を祀る三霊社を建てる。〉 1863年(文久3年)3月:加賀藩士、墓所に燈籠1基を寄進。 1863年(文久3年)8月18日:〈八月十八日の政変。三条実美・東久世通禧ら七卿、京都を追われる。〉 1863年(文久3年)8月21日:三条実美・東久世通禧ら、墓所を参拝する。 1863年(文久3年)11月15日:薩摩藩士折田要蔵、藩に楠社創建を建白。 1864年(元治元年)2月9日:薩摩藩、南朝の忠臣らを合祀した神社を湊川に創建することを建白。朝廷は即日聴許。 1864年(元治元年)4月7日:幕府、薩摩藩の楠社創建を認め、社地を湊川とし、之を薩摩藩に与えることを大坂城代に命じる。 1864年(元治元年)5月25日:長州藩、山口の明倫館で初めて楠公祭を行う。村田清風・吉田松陰・来島良蔵など17柱をあわせて祀る。 1864年(元治元年)5月25日:三条実美・東久世通禧ら五卿、真木保臣などとともに周防湯田で楠公祭を行う。 1864年(元治元年)6月:久邇宮朝彦親王、墓所に燈籠1対・弓2張・矢4本を寄進。 1864年(元治元年)6月5日:薩摩藩士西郷隆盛、木場伝内・伊地知正治とともに社地を見分。 1864年(元治元年)7月:薩摩藩の楠社創建、立ち消えとなる。 1864年(元治元年):尼崎藩主松平忠興、墓所に燈籠1対を寄進。 1865年(慶応元年)春:岡藩士、墓所に燈籠1基を寄進。 1865年(慶応元年)5月25日:長州藩、明倫館で楠公祭を行う。殉難者を合祀する。以後、1869年(明治2年)まで毎年行う。 1865年(慶応元年)5月25日: 1865年(慶応元年)5月25日: 1865年(慶応元年)夏:岡藩士、墓所に燈籠1基を寄進。 1865年(慶応元年):〈丹羽佐一郎、名古屋の神明社境内に楠公社を建てる。〉 1866年(慶応2年)5月25日:三条実美・東久世通禧ら五卿、大宰府で楠公祭を行う(1865年(慶応元年)は行わず。)。 1866年(慶応2年):飯田藩士、墓所に燈籠1対を寄進。 1867年(慶応3年)5月25日:三条実美・東久世通禧ら五卿、大宰府で楠公祭を行う。 1867年(慶応3年)5月25日:津和野藩、初めて楠公祭を行う。 1867年(慶応3年)11月8日:徳川慶勝、楠社を京都に創建する建白書を書く。摂社に殉難者を祭ることも提案する。 1867年(慶応3年)11月11日:尾張藩の京都留守居役の尾崎八右衛門忠征、藩地の荒川甚作(八右衛門の実子)に建白の内定を伝える。また、左大臣近衛忠房に建白書を見せる。 1867年(慶応3年)11月12日:左大臣近衛忠房、父近衛忠熙と慶勝の建白書について協議し賛同する。忠房、連署し、朝廷に送る。 1867年(慶応3年)11月18日:尾崎八右衛門忠征、徳川慶勝に会う。建白書を武家伝奏や摂政二条斉敬や国事懸・参与などに見せることを伝える。 1867年(慶応3年)11月19日:飛鳥井雅典、摂政二条斉敬に建白賛同の意を伝える。 1867年(慶応3年)11月24日:嵯峨実愛、建白に賛同し、早く実行することを上申する。 1867年(慶応3年)11月25日:摂政二条斉敬、左大臣近衛忠房に建白書に意見を求める。近衛忠房は賛意を示す。 1867年(慶応3年)11月26日:朝廷、敬勝の建白書を採用する。敬勝に祭神となる人物(摂社祭神)と社地の候補を調査することを命じる。 1867年(慶応3年)11月:徳川敬勝、摂社祭神については無表名で合祀すること、社地については京都神楽岡が適していることを上申(これに対する朝廷の反応は不明)。 1868年(明治元年)2月15日:薩摩藩士折田要蔵、三条実美・岩倉具視に楠公の顕彰を建白(これに対する反応は不明)。 1868年(明治元年)3月21日:〈明治天皇、大坂行幸。〉 1868年(明治元年)3月22日:岩下佐治右衛門ら、東久世通禧へ創建の建白。 1868年(明治元年)3月24日:東久世通禧、大坂に行き、明治天皇に奏聞する。聴許となる。 1868年(明治元年)3月:徳川敬勝、楠社創立について再度建白 1868年(明治元年)4月3日:東久世通禧、岩下佐治右衛門に神社平面図を調査し、神祇事務局へ提出することを命じる。社名は大楠霊社の内評があることを伝える。 1868年(明治元年)4月4日:〈梅宮大社、同社境内に楠社創建を上申。〉 1868年(明治元年)4月5日:中路権右衛門、広厳寺に楠社創建を伝える。 1868年(明治元年)4月14日:神祇事務局、楠社創建は神祇事務局が統率することを上申。 1868年(明治元年)4月17日:広厳寺、墓碑は従前の通り広厳寺が管理し、新たな神社を設けるのならば、住野斎助を宮守に任ずことを建白。 1868年(明治元年)4月21日:太政官、神祇事務局に楠社創建を命じる。1000両の下賜を伝える。兵庫裁判所にも伝える。梅宮大社の上申、却下される。 1868年(明治元年)4月27日:太政官、徳川慶勝に楠公社創建について湊川に創建することを伝える。 1868年(明治元年)4月27日:楠社創建の寄付・援助についての布告。 1868年(明治元年)4月:徳川慶勝、湊川とは別にもう一社京都に創建することを建白。 1868年(明治元年)閏4月19日:水戸藩、楠社創建を水戸藩に一任するように上申。 1868年(明治元年)閏4月24日:尼崎藩、広厳寺の建白を弁事局へ通達。これを却下する。 1868年(明治元年)閏4月28日:広厳寺僧仙荘、社人とすることを請願。 1868年(明治元年)5月:神祇官、兵庫裁判所へ達 1868年(明治元年)5月23日:政府、尼崎藩と古河藩に湊川より生田川までの土地を上知させる。 1868年(明治元年)5月25日:京都河東操練場で楠公祭を行う。 1868年(明治元年)6月19日:政府、援助に関する布告。 1869年(明治2年)3月30日:京都の楠公社創建は取りやめになることが決定する。 1869年(明治2年)5月15日:楠公祭を湊川で行うことを決める。 1869年(明治2年)5月25日:湊川で楠中将霊祭を行う。 1869年(明治2年)6月17日:水戸藩の上申を却下。政府で楠社を創建することが確定する。 1869年(明治2年):〈津和野藩、養老館に楠社を祀る。〉 1870年(明治3年)4月4日:〈兵部省、楠木正成らに贈位して招魂社に配祀することを上申する。〉 1870年(明治3年)5月25日:湊川で楠中将霊祭を行う。 1870年(明治3年)6月:政府、造営事務を兵庫県へ委任。 1870年(明治3年):明治天皇、刀剣下賜。 1871年(明治4年)2月:社地の整地を始める。 1871年(明治4年)5月1日:楠社を湊川・宇治川間の産土神と定める。 1871年(明治4年)5月16日:吉田重蔵を造営掛にする。小野らを県の係員とする。 1871年(明治4年)5月20日渡辺新右衛門を造営掛りに任ず 1871年(明治4年)5月25日:湊川で楠中将霊祭を行う。藤波教忠が奉幣使として参列。 1871年(明治4年)6月:政府へ造営資金の追加支給を願う。 1871年(明治4年):高松藩、墓所に燈籠1対を寄進。 1871年(明治4年):石垣完成 1872年(明治5年)1月:本殿造営開始。 1872年(明治5年)3月4日:本殿、柱立。 1872年(明治5年)4月29日:湊川神社社名決定。別格官幣社に列格することが決まる。 1872年(明治5年)5月6日:本殿上棟式。 1872年(明治5年)5月24日:湊川神社、創建。遷霊祭。鎮座祭。別格官幣社に列格。 1872年(明治5年)5月25日:楠公祭。
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