島田紳助 島田紳助の概要

島田紳助

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/10 00:24 UTC 版)

島田しまだ 紳助しんすけ
本名 長谷川 公彦
(はせがわ きみひこ)[1]
別名義 カシアス島田
生年月日 (1956-03-24) 1956年3月24日(68歳)
出身地 京都府京都市南区唐橋
血液型 AB型
身長 170 cm
言語 日本語
最終学歴 京都学園大学
(現・京都先端科学大学中退
師匠 島田洋之介・今喜多代
コンビ名 紳助・竜介1977年 - 1985年
相方 松本竜介(コンビ時代)
芸風 ボケ漫才師時代)
立ち位置 右(漫才師時代)
事務所 吉本興業(2011年まで)
活動時期 1974年 - 2011年
同期 明石家さんま
オール巨人
桂小枝
過去の代表番組 オレたちひょうきん族
サンデープロジェクト
CLUB紳助
新伍&紳助のあぶない話
オールスター感謝祭
紳助の人間マンダラ
開運!なんでも鑑定団
クイズ!紳助くん
松本紳助
嗚呼!バラ色の珍生!!
行列のできる法律相談所
クイズ!ヘキサゴンII
ほか
作品 映画風、スローダウン
他の活動 ディンプス相談役(過去)
京都市特別観光大使(過去)
弟子 島田まさし ほか
受賞歴
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概要

1977年に漫才コンビ「島田紳助・松本竜介」を結成。1985年の解散後は芸能界を引退する2011年まで数多くの番組で総合司会、プロデューサーとして活躍した。2011年8月23日に暴力団関係者との交際の発覚を理由に芸能界を引退した[3]1974年から2011年の芸能界引退時まで吉本興業(よしもとクリエイティブ・エージェンシー)に所属した。

略歴

芸能界入りまで

父親が国鉄職員(南満州鉄道の職員歴もある)の家庭に生まれ育つ。自らの著書『いつも心に紳助を』では、「鳩のように真面目で温厚な性格で、同じ時間に出社して、同じ時間に帰ってきて、同じ時間に寝る毎日だった。また自分が警察に補導されても『話し合いで解決できる』と言って一度も激怒しなかった」と振り返っている。

小学3年生の時から家庭教師が雇われるなど、勉学に勤しむ家庭環境だったが、大谷高校時代は全く学校に馴染めずに中学・高校は不良として過ごしていた。その後京都学園大学経済学部に進学したが、入学試験が面接だけであり、ここに4年間通っても得るものは少ないと考え、親が入学金を支払った直後に漫才師を目指す事になり芸能界に身を置くために中退した。

芸能界入りから漫才ブームへ

高校時代にテレビでB&B(当時は島田洋七上方よしおのコンビ)の漫才を見て衝撃を受け、漫才師になる事を志し、1974年に洋七と同門になるため島田洋之介・今喜多代に弟子入りし内弟子となる。その後しばらくは洋七の付き人になる一方で、同期の明石家さんまと営業活動を行なったり、しばらく相方を変えながら漫才活動を行うがどれも上手くいかず、さんまから紹介された劇場進行係のスタッフ・松本竜介1977年に「紳助・竜介」を結成。紳助は徹底的に過去の漫才を研究し、若い世代にターゲットを絞った「ツッパリ漫才」を考案。以降、1980年からの漫才ブームの到来により一気に全国ネットのスターダムにのし上がった。1980年に結婚。

1980年代前半は1981年井筒和幸が監督した映画「ガキ帝国」にコンビとして主演。その一方で漫才ブームが次第に沈静化する中、「オレたちひょうきん族」のレギュラー出演やクイズ番組のパネラーなど個人でのタレント活動も多くなり、1985年5月に紳助・竜介は解散した。

自らの趣味である音楽活動などを行う一方で、1985年には「鈴鹿8時間耐久ロードレース」への参戦を目的としてチーム・シンスケを結成した。相当な熱の入れようで、その模様は小説として「風よ、鈴鹿へ」を発表したり、自身司会のトーク番組でもある「CLUB紳助」(朝日放送)などでも度々放送された。さらに前述の「風よ、鈴鹿へ」を元に映画製作を企画し、1991年に自ら脚本および監督として「風、スローダウン」を制作した。レーシング活動は1995年まで約10年ほど活動している。

売れっ子司会者として

1980年代後半も吉本興業の東京の本格的進出の足掛かりとして明石家さんまと共にピンでのタレント活動で多忙を極めるが、吉本の東京支社長であった木村政雄のアイデアで、さんまとの差別化を図る目的で、1989年4月に放送を開始した政治討論番組『サンデープロジェクト』(テレビ朝日)の総合司会に抜擢[4]。自分のジャンル外として、当初は固辞していたが、その後2004年まで15年間にわたって総合司会を続けた。特に当時、同番組に出演することが多かった自民党内でも異端的な政治家であった小泉純一郎については自らのコラムでたびたび好意的に言及したり、自らのトーク番組にゲストで招いたりしていた。そのため小泉が自民党の総裁選に出馬した際や自らの公約である郵政民営化については期待を込めていずれも支持した。但し、2007年7月第21回参議院議員通常選挙では、「今の日本には強力な保守二大政党制が必要」「民主党が政権を取ったときは自民党を応援する」と発言し、大阪府選挙区民主党から出馬していた梅村聡の応援演説に立った。

1990年代

その間も売れっ子司会者として1990年代は『歌のトップテン』・『EXテレビ』火曜日・『嗚呼!バラ色の珍生!!』(いずれも日本テレビ系)、『新伍&紳助のあぶない話』(関西テレビ・フジテレビ系)、『開運!なんでも鑑定団』(テレビ東京系)、また関西ローカル番組として『クイズ!紳助くん』(朝日放送)『紳助の人間マンダラ』(関西テレビ)など数々の冠番組および人気番組の司会を担当した。特に1991年から始まった春秋の改編期の特別番組の『オールスター感謝祭』(TBS系)の総合司会については、初の大型番組司会を無事にこなした事に初回放送終了後に兄弟子の島田洋七によくやったと褒められたと言う。同番組の総合司会は2011年の芸能界引退まで20年続けた。

1998年の7月には、『朝まで生テレビ!』で同番組としては異例の「紳助と語ろう!中学生はいま」をテーマに司会進行を務めた。

2000年代

2000年代に入っても『松本紳助』・『行列のできる法律相談所』・『人生が変わる1分間の深イイ話』(いずれも日本テレビ系)、『クイズ!ヘキサゴンII』(フジテレビ系)、『世界バリバリ★バリュー』(毎日放送・TBS系)などのヒット番組を総合司会として長年レギュラー出演。

またこの頃から、番組の企画としてプロデュース業も手掛けるようになり、関西テレビ『紳助の人間マンダラ』では、吉本のお笑いコンビであるランディーズロザンキングコングの3組によるアイドルユニット「WEST SIDE」をプロデュース。関西圏ではジャニーズ事務所のアイドル達をも凌駕するほどの人気グループに成長させた。また、島谷ひとみのデビュー曲「大阪の女」も紳助のプロデュースで、同番組からデビューした。

2001年に吉本から「既存のあらゆる漫才の賞を凌駕する新しい漫才コンテストを吉本で作りたいので知恵を貸して欲しい」と頼まれ、漫才コンテストM-1グランプリを事実上のプロデューサーとして企画やスポンサー集めから携わり、大会委員長として審査員も務めた(同プロジェクトをM-1と名付けたのも紳助)。同番組では数多くのスターを輩出したが、紳助は「惜しまれて終わるのが一番良い」と述べ、2010年で一旦終了させた(その後、紳助引退後の2015年から同番組は復活)。

2004年10月から後述の傷害事件により一時的に芸能活動を自粛。年明けの2005年1月に復帰。

この頃から、タレント業以外に実業家としても活動し、2005年には石垣島にて喫茶店「TOMURU(トムル)」を開店した。同年、雑誌取材が縁で知り合った男性と共同出資で寿司はせ川をオープンし、以降も東京・大阪を中心に多くの飲食店を展開した。

2007年からは、総合司会を務めるフジテレビ『クイズ!ヘキサゴンII』で、Pabo羞恥心といったユニットをプロデュースし、いわゆる「おバカブーム」を作り出し、2009年2010年には同番組をベースとしたフジテレビ『FNSの日』26時間テレビの総合司会を2年連続で務めた。その中で、FNS局対抗企画として2年連続で開催した三輪車12時間耐久レースで大会委員長を務めた。その一方でバラエティ番組だけではなく2007年の参議院選挙、2009年の衆議院選挙、2010年の参議院選挙の三度にわたって、日本テレビ選挙特別番組ZERO×選挙』で村尾信尚と共にメインキャスターを務めた。

芸能界引退

2011年8月23日、司会を務める『開運!なんでも鑑定団』放送終了直後の22時より吉本興業本社にて記者会見を開き、暴力団関係者との「黒い交際」を理由に芸能界引退を表明した。警察は深い交際があったのではないかと捜査を進めていると報道された[5]。(詳細後述)

週刊現代による暴力団交際報道の記事について、発行元の講談社を名誉棄損で民事裁判による訴えを起こしたが、東京地裁は、複数の建設会社社員らに対する現代側の取材内容について「具体的かつ詳細で、内容に不自然な点はない」と指摘し、「少なくとも記事の重要部分を真実と信じる相当の理由があった」と認め、紳助側の主張を退けた[6]

芸能界引退後

引退後は完全に芸能界から退いている。ただし、芸能マスコミのインタビューに応じることはあり、その度に明確に復帰を否定している[7]。また、東野幸治宮迫博之などの行列ファミリーやmisonoを始めとするヘキサゴンファミリーなど親しい芸能人とはゴルフや食事などで交流を続けており(後述)、明石家さんまや松本人志らも紳助とメールのやり取りをするなどしているという。

2021年時点で最後の公式なマスメディア出演は、2012年1月に本人役として引退前に声のみの出演をした映画『犬の首輪とコロッケと』である[8]

引退後も定期的に紳助の芸能界復帰の噂が流れ、実際に吉本興業も明石家さんまに相談して本人の意思があればカムバックを準備していたが、結局紳助本人に復帰意思はなかったという[9]。紳助自身も後年応じたインタビューにおいて「僕は芸能界に未練はない」「沖縄での隠棲生活は『精神的にギリギリの苦しさ』やった」などと振り返り、最後に「これからは世界を旅したい。人間生きてるだけで幸せだと思う」と語ると同時に芸能界復帰や政治家転身を否定している[10]。一方で「いつか『テレビに出れる人』になりたい」とも語っており、自身の突然の引退で迷惑をかけた番組スタッフらに償いをしたいという気持ちがあるとし、レギュラー番組などの完全な復帰は否定しつつも、(『行列のできる法律相談所』のスタッフを指して)「彼らから『特番やろう』『BS(の番組)やろう』と言われたなら『1回だけやりたい』」とも述べている[11]

2014年8月に亡くなった高校の同級生である土建屋よしゆきの通夜に、報道陣を避けて報道陣退去後に訪れ、よしゆきと最後の対面をし、本名の「長谷川公彦」名義で献花をしている。告別式には参列しなかった[12]

2019年6月、吉本興業の芸人十数名を中心とした反社会的組織への闇営業が各メディアで取り上げられた際、かつて暴力団関係者との交際があったとされた紳助本人が引き合いに出された。その後7月20日に宮迫博之と田村亮が自前での記者会見を開いたこと、22日に吉本興業の岡本昭彦社長の会見が行われたことについて週刊文春のインタビューに応じ、渦中の一人である宮迫と騒動後に会っていたことも語った[13]

2020年1月13日、misonoのYouTubeチャンネルの動画に紳助が登場し、引退してから初めて映像で公の場に姿を現した[14][15][16]

2023年1月6日、AbemaTVにて放送されたエディオンアリーナ大阪で開催されたボクシングイベント「3150FIGHT vol.4」をリングサイドで観戦した際、主催者の亀田興毅から招待客として名前を紹介され、一瞬ではあるが久々にテレビカメラの前に姿を現した。

人物

マネージメントは芸能界入りから引退まで一貫して吉本興業であったが、個人事務所として鈴鹿サーキットのコーナーから名付けた個人事務所「有限会社オフィス百三十アール」(通称 「130R」)も設けている。1999年7月[17]から2011年3月末まで京都市特別観光大使を務めていた。

その他では、かつて紳助がバイクチームを率い鈴鹿8耐に出場した際にチームのメインスポンサーを務めていたSNKの当時専務であった西山隆志と公私共に親しくなったことがきっかけで、彼が社長を務めるゲーム会社の株式会社「ディンプス」の相談役を引退まで続けていた。

弟子

弟子に島田まさしらがいる。また弟子ではないが、紳助に弟子入りを申し込んで断られた板尾創路は「130R」の名前を気に入り、紳助の了承を得て「130R」の名前をほんこんと自身のコンビ名にした。

趣味・嗜好

1986年から1995年まで、レーシングチーム『チーム・シンスケ』の監督として鈴鹿8時間耐久ロードレース全日本ロードレース選手権に参戦し、NHKのスポーツ番組でインタビューが放送された。1980年代後半は好景気で、モータースポーツ界は、多くのタレントらを名ばかりの監督に据えたレーシングチームが2輪・4輪を問わず乱立していたが、紳助は自ら企画書を作成してスポンサー企業を回り、レース当日は自分で作戦を立案してライダーやスタッフに指示するなど、他のタレント監督とは完全に一線を画していた。当時の活動を書いた著書『風よ、鈴鹿へ』は、小説ではあるがノンフィクションに限りなく近い作品である。1991年にバイクレースをテーマとした映画『風、スローダウン』の監督をつとめている。

高校時代に経験しているためボクシングに造詣が深く、他のスポーツに比べてマイナーなイメージがある事を遺憾に思っている。亀田一家のパフォーマンスや辰吉丈一郎が対戦相手を挑発する行為は、マイナーなボクシングを世間にアピールするための言動であると評している。渡辺二郎と交友歴が長かったが、これがのちに芸能界引退の契機となった。

野球やサッカーについては阪神タイガース掛布雅之や当時ガンバ大阪の選手であった永島昭浩と仲が良く、度々試合を現地で観戦していたという。

料理が得意で、『料理の鉄人』に挑戦者として出演し、陳健一と対決した。

影響を受けた人物

島田洋七

紳助がテレビでB&B(当時は島田洋七と上方よしおのコンビ)の漫才を見て衝撃を受け「島田洋七を倒す事に俺の青春を賭けよう」と考え、漫才師を目指して同門入りしたと言う[18]。紳助は二年間、金魚のふんのように洋七について回り[19]、B&Bの漫才を徹底的に研究した[20]。紳助は「結局何もしてないのに勝手に倒れた」と語るが、その後も洋七を自らの番組に呼んだり、洋七の小説『佐賀のがばいばあちゃん』の二度の映画化の際にいずれも友情出演している。

ダウンタウン

紳助はNSCの講師として招かれ、その時にダウンタウンの漫才を見て、そのテンポの遅さと漫才スタイルに衝撃を受け、これで客に受けるのなら自分たちの漫才はもう駄目だと悟ったという。実際に1985年の解散時の記者会見で「このままではサブロー・シローダウンタウンには勝てない」と発言。当時全くの無名だったダウンタウンの名前を出していた[注 1]。その後もダウンタウンとは何度も番組で共演しており、特に松本人志は著書などで、芸能界で尊敬に値する数少ない人物の一人として紳助を挙げている。

上岡龍太郎

若い頃より関西のテレビ・ラジオの番組で共演が多かった。紳助は芸や司会について多くを学び、上岡を師と仰ぐほど心酔していた。上岡が芸能界引退を決めた際には「芸能界での道標を失ってしまう。引退を考え直してくれ」という旨の手紙を送るほどだったという。上岡の芸能界引退での2000年3月の「鶴瓶上岡パペポTV」の最終回の際に飛び入りで収録に参加した。上岡の引退後も2004年の自らの不祥事の際に身の振り方を相談していたと言う。


注釈

  1. ^ ダウンタウンは無名だったため、スポーツ新聞などには「紳助・竜介解散!このままではサブロー・シローに勝てない」と書かれていた。
  2. ^ 同番組は法律を題材としていたため、他番組のような扱いは出来なかった。
  3. ^ ただし、『行列のできる法律相談所』や『オールスター感謝祭』では「紳助(さん)」「島田(さん)」「紳ちゃん」などと実名を出されている。
  4. ^ ただし、ある放送分の「ひょうきんベストテン」において、紳助が仕事の都合で海外に行っており、さんまが代役を務めたことがあった。
  5. ^ ただし、2011年12月4日は綾部祐二ピース)が、2012年3月4日はベッキーがそれぞれ担当した。なお、番組改編期のスペシャル版は上記の4人ではなく明石家さんまが務めている。
  6. ^ 本作の演出を担当した井筒和幸との縁で映画『ガキ帝国』に主演する。

出典

  1. ^ a b Inc, Natasha. “島田紳助のプロフィール・作品情報”. お笑いナタリー. 2024年5月7日閲覧。
  2. ^ a b c 『DJ名鑑 1987』三才ブックス、1987年2月15日、83 - 84頁。NDLJP:12276264/42 (要登録)
  3. ^ 芸能界復帰否定に「ホッ…」島田紳助氏に語り継がれる“暴君伝説” FRIDAYデジタル 2020年1月18日配信 2021年5月23日配信
  4. ^ 木村政雄の私的ヒストリー|木村政雄の事務所
  5. ^ “警視庁、紳助引退で吉本に事情説明を求める”. サンケイスポーツ. (2011年8月30日). オリジナルの2011年11月14日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20111114194638/http://www.sanspo.com/geino/news/110830/gnd1108300519002-n1.htm 
  6. ^ “紳助さんの週刊現代への請求棄却 「信用性は高い」 暴力団交際報道で東京地裁”. MSN産経ニュース. (2012年10月30日). オリジナルの2016年3月4日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20160304212526/http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/121030/trl12103019080003-n1.htm 
  7. ^ 島田紳助(インタビュー)「【引退から7年】ホンマ、平和な日々ですわ……庭いじりで日焼け「62歳 島田紳助」隠居生活を語る」『週刊新潮』、2018年9月7日https://www.dailyshincho.jp/article/2018/09070640/?all=12021年7月28日閲覧 
  8. ^ “紳助さんが“復帰”! 映画で本人役の声出演…引退前に収録”. スポーツ報知. (2012年1月7日). オリジナルの2012年12月2日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20121202014859/http://hochi.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20120107-OHT1T00002.htm 2021年7月28日閲覧。 
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  10. ^ “紳助「芸能界に未練ない、もう仕事しない」”. サンケイスポーツ: p. 2. (2012年4月19日). オリジナルの2012年10月1日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20121001122537/http://www.sanspo.com/geino/news/20120419/owa12041905060000-n2.html 
  11. ^ 佐藤, 勇馬 (2012年4月19日). “島田紳助、引退後初の独占告白! その真意と芸能界への未練”. メンズサイゾー. オリジナルの2021年1月28日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20210128121601/https://www.menscyzo.com/2012/04/post_3914.html 2021年7月27日閲覧。 
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