甲申政変 甲申政変の概要

甲申政変

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/10 00:32 UTC 版)

甲申政変
クーデターによって事大党を一掃し、日本と協力して近代化を図ろうとした金玉均1894年3月28日上海で暗殺され凌遅刑に処せられた。
各種表記
ハングル 갑신정변
漢字 甲申政變
発音 カプシンジョンビョン
日本語読み: こうしんせいへん
: かふしんせいへん
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背景

閔妃とされてきた写真

1880年代前半、朝鮮の国論は、清の冊封国としての立場の維持に重きをおいて事大交隣を主義とする守旧派(事大党)と朝鮮の近代化を目指す開化派に分かれていた。後者はさらに、国際政治の変化を直視し、外国からの侵略から身を守るには、すでに崩壊の危機に瀕している清朝間の宗属関係に依拠するよりは、むしろこれを打破して独立近代国家の形成をはからなければならないとする急進開化派(独立党)と、より穏健で中間派ともいうべき親清開化派(事大党)に分かれていた[2]。親清開化派は、清国と朝鮮の宗属関係と列国の国際関係を対立的にとらえるのではなく、二者併存のもとで自身の近代化を進めようというもので、閔氏政権の立場はこれに近かった[2][3]。一方の急進開化派は、朝鮮近代化のモデルとして明治維新後の日本に学び、日本の協力を得ながら自主独立の国を目指そうという立場であり、金玉均朴泳孝ら青年官僚がこれに属した[3]。日本の政財界のなかにも、朝鮮の近代化は、明治政府の進める殖産興業政策によって生まれる近代産業の市場としての価値を高めるものとして期待された。

1882年7月の壬午軍乱の結果、閔氏政権は事大主義的な姿勢を強め、清国庇護のもとでの開化政策という路線が定まった[4][注釈 1]。その結果、今まで「衛正斥邪」を掲げる攘夷主義者と対峙してきた開化派は、清国重視のグループと日本との連携を強化しようとするグループに分裂した[4]1876年日朝修好条規の締結によって朝鮮を開国に踏み切らせた日本であったが、軍乱後に清国と朝鮮がむすんだ中朝商民水陸貿易章程によって修好条規の規定は空洞化され、朝鮮政府に対する影響力はその分減退した[5]金宏集(のちの金弘集)、金允植魚允中らは清国主導の近代化を支持し、閔氏政権との連携を強めるようになった[5]

独立党の活動

独立党のリーダーとして活躍した金玉均

金玉均朴泳孝徐載弼ら独立党の人士が朝鮮の開化をめざして日本に接近したのは1870年代後葉にさかのぼる。

金玉均は、近代的技術の導入と軍事力強化のために洋務開化論を唱えた右議政(副首相に相当)朴珪寿の影響を強く受けた[6]。朴珪寿自身は1877年に没したので、1880年代の指導者とはならなかったが、その指導下には朴泳孝、朴泳教、徐載弼、洪英植らの開化派が形成され、清国との関係を維持しながら近代化を進めようとする金宏集、金允植、魚允中、兪吉濬ら穏健開化派も元来は同じ系統に属していた[6]

1879年(明治12年)、金玉均らは仏僧李東仁を日本に密入国させ、福澤諭吉後藤象二郎をはじめ一足先に近代化を果たした日本の政財界の代表者達に接触し、交流を深めていった[7]

金玉均自身の最初の訪日は1882年3月から同年の8月までであった[6]。これは、自身が高宗にはたらきかけた結果実現したもので、高宗は金玉均、朴泳孝、閔泳翊、徐光範の4人を日本に派遣しようとしたが、朴泳孝と閔泳翊は都合がつかず、31歳の金玉均と23歳の徐光範の派遣となった[8]。金玉均は長崎で地方議会、裁判所、小中学校・師範学校、電信施設などを視察、大阪では府知事と会見して練兵場、印刷所、建設会社などを見学、京都では府庁を訪問したほか盲唖院その他を見学している[8]。東京では福澤諭吉と親しく交わり、主要な施設を精力的に視察した。また、福澤の紹介などによって井上馨大隈重信榎本武揚副島種臣渋沢栄一大倉喜八郎内田良平をはじめ、官民問わず多数の人びとと会合した[8]。さらに横浜の清国公使館はじめ各国の領事館等もくまなく訪問し、海外事情の収集にも尽力した[8]。金玉均らが壬午軍乱発生の報に初めて接したのは、その帰途の山口県下関においてであり、大院君拉致事件を知ったのは仁川においてであった[6]

壬午軍乱
襲撃された日本公使館

壬午軍乱は、呉長慶丁汝昌らを中心とする清国軍が、乱の首謀者で国王の父興宣大院君を拉致して中国の天津に連行したことで収束した。復活した高宗と閔氏の政権は清国の制度にならった政治改革をおこなった[5]。朝鮮はまた、清国軍3,000名、日本軍200名弱の首都漢城(現、ソウル)への駐留という事態を引き受けざるを得なくなった[5]。上述のとおり、朝鮮は清国より中朝商民水陸貿易章程を押し付けられることとなり、開化政策は清国主導で進められることがはっきりとしてきた。一方、朝鮮政府は、軍乱後に日朝間で結んだ済物浦条約の規定によって1882年10月に謝罪使として朴泳孝を特命全権大使、金晩植を副使、徐光範、閔泳翊、徐載弼、柳赫魯らを従事官とする総勢約20名を派遣した[6][8][9]。金玉均は書記官の肩書で顧問としてこれに加わった[6][8]。一行は同年12月まで日本に滞在し、朴泳孝らは明治天皇に謁見、政府高官とも接触して朝鮮独立援助を要請、さらに福澤諭吉ら多くの日本の知識人と親交を結んで海外事情や新知識を獲得した[6][9]

朝鮮の自主独立を標榜してきた日本としては好機到来といえたが、軍乱後の朝鮮は清国の制圧下にあり、政府部内も山縣有朋らの積極的関与論と井上馨らの不干渉論に分かれた[6]。閣議は積極的援助を避けながらも限定的に朝鮮独立を支援するという折衷論に決定した[6]。軍乱の償金支払いを済物浦条約で規定された5年間から10年間へと年限を緩和し、横浜正金銀行からは17万円の借款が供与された[6]。この訪日は、金玉均にとって2度目にあたったが、12月に朴泳孝ら10名が朝鮮へ帰国してのちも徐光範らとともに日本にとどまり、政財界人や外国使節とも会って交流を深め、1883年3月まで日本に滞在した[6][8]

朝鮮の外交顧問となったメレンドルフ

一方、軍乱後に王宮にもどった閔妃は潜伏していた忠州で知り合った巫女を王室の賓客として遇し、厚く崇敬して毎日2回の祭祀を欠かさないほどであった[5]。閔氏一族や政府高官も加わった祭祀は、やがてこれにかかる費用は莫大なものとなった[5]。朝鮮全土の宗教者も王宮に集まってこれを占拠する状態となり、売官が再流行して朝鮮半島の政治はいっそう混迷の度を深めた[5]。壬午軍乱後、李鴻章によって朝鮮政府の外交顧問に推薦され、その任についたドイツ人パウル・ゲオルク・フォン・メレンドルフは、釜山元山仁川の3港に設けた税関を管掌していたが、閔氏政権の重鎮で閔妃の甥にあたる閔泳翊と謀って税関収入の一部を閔妃個人のために支出した[2][5]。さらに1883年、朝鮮の国庫の窮状を知ったメレンドルフは「当五銭」という悪貨の鋳造を朝鮮政府に勧め、これは漢城、江華島平壌で大量に鋳造されたが、金玉均ら独立党は、インフレーションをまねき、人民の経済生活に大混乱を生じかねない当五銭に強い危機感をいだいて猛烈に反対し、その代案として日本などからの借款の獲得をめざした[5][10][11]勢道政治を進める閔氏やメレンドルフからすれば、あくまでも正論を唱える金玉均は邪魔者でしかなかった[11]


注釈

  1. ^ 壬午軍乱は1882年7月23日興宣大院君らの煽動を受けて、漢城で起こった閔氏政権および日本に対する大規模な朝鮮人兵士の反乱。日清両国が軍艦・兵士を派遣し、清国軍が大院君を拉致・連行したことで収束した。
  2. ^ 尹致昊は1881年に紳士遊覧団として派遣された魚允中の随行員として日本に渡り、朝鮮初の日本留学生の一人となった人物。外務卿井上馨の斡旋で中村正直同人社に学んだ。
  3. ^ 「郵征局」は郵政関連の中央官庁であり、「中央郵便局」のたぐいではない。
  4. ^ 閔泳翊と洪英植は、1883年7月以降、高宗の派遣した渡米使節団のそれぞれ正使と副使を務めた(徐光範は参事官、随員は兪吉濬ら5名であった)。9月18日アメリカ合衆国大統領チェスター・A・アーサーに謁見したのち閔と洪は別行動をとり、洪英植一行は太平洋航路で10月に帰国、閔泳翊一行は大西洋インド洋航路で12月に帰国した。思想史家の姜在彦は、この別行動を閔と洪のアメリカ視察中の意見の相違が理由ではないかと推測している。そしてもし、閔妃の親戚にあたる閔泳翊が洪英植や徐光範が期待するように独立開化派の考えに共鳴し、その後援者となったならば、平和的な「上からの改革」が可能であり、甲申政変のようなクーデタを必要としなかったかもしれないと論じている。姜(2006)p.238
  5. ^ その惨状は1937年(昭和12年)7月の通州事件に酷似するとの指摘がある。拳骨(2013)
  6. ^ 族誅とは、重罪を犯した者の3親等までの近親者を残忍な方法で処刑すること。
  7. ^ 日本に亡命したのは、金玉均、朴泳孝、徐光範、徐載弼、李圭完、申応煕、柳赫魯、辺燧、鄭蘭教の9名であった。呉(2000)p.135
  8. ^ 全権大臣金弘集の全権委任状に、

    京城不幸有逆党之乱、以致日本公使誤聴其謀、進退失拠、館焚民戕、事起倉猝均非逆料

    という一文がみえる。国立公文書館アジア歴史資料センター「朝鮮事変/5 〔明治18年1月4日から明治18年1月31日〕」レファレンスコード(B03030194800)p.5

  9. ^ 井上馨外務卿には、実は対清交渉用の全権もあたえられていた。太政大臣三条実美によって日清両国軍の朝鮮撤兵交渉を指示する訓告があたえられていたのである。海野(1995)p.69
  10. ^ 杵淵信雄は、福澤はリアリストであり、同時に、何よりも日本の独立自尊を願う点では一貫していたと評している。杵淵(1997)p.137

出典

  1. ^ 甲申政変 こうしんせいへんKotobank
  2. ^ a b c 海野(1995)pp.56-61
  3. ^ a b 呉(2000)pp.56-66
  4. ^ a b c d e f g h i j 牧原(2008)pp.278-286
  5. ^ a b c d e f g h i 呉(2000)pp.66-78
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay 海野(1995)pp.61-67
  7. ^ a b c d e f 海野(1992)pp.20-22
  8. ^ a b c d e f g h i j 呉(2000)pp.89-101
  9. ^ a b 佐々木(1992)pp.221-224
  10. ^ a b c d e 糟谷(2000)pp.232-235
  11. ^ a b c d e f g h i j k l m n 水野(2007)pp.162-166
  12. ^ 呉(2000)pp.102-112
  13. ^ a b c d e f g h i j k 呉(2000)pp.112-120
  14. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 呉(2000)pp.121-128
  15. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y 佐々木(1992)pp.224-229
  16. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 杵淵(1997)pp.97-108
  17. ^ a b c d e f g h i 姜(2006)pp.233-236
  18. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 呉(2000)pp.128-143
  19. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 呉(2000)pp.144-159
  20. ^ a b c d e f 杵淵(1997)pp.109-120
  21. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 海野(1995)pp.68-71
  22. ^ 国立公文書館アジア歴史資料センター「朝鮮暴動事件 一/1 〔明治17年12月12日から明治17年12月19日〕」レファレンスコード(B03030193500)朝鮮当局と竹添公使の間で交わされた書簡問答より
  23. ^ a b c 国立公文書館アジア歴史資料センター「朝鮮事変/4 〔明治17年12月26日から明治17年12月31日〕」レファレンスコード(B03030194700)p.19- 竹添公使と督弁交渉通商事務趙秉鎬の会談記録
  24. ^ 中司(2000)pp.162-172
  25. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 糟谷(2000)pp.235-239
  26. ^ a b 姜(2006)pp.247-254
  27. ^ a b 佐々木(1992)pp.302-305
  28. ^ a b 杵淵(1997)pp.121-133
  29. ^ 杵淵(1997)pp.1-3
  30. ^ 杵淵(1997)pp.135-148






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