甲申政変 影響

甲申政変

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/10 00:32 UTC 版)

影響

朝鮮

徐載弼

天津条約の結果、日清両国は軍事顧問の派遣中止、軍隊駐留の禁止、やむを得ず朝鮮に派兵する場合の事前通告義務などを取り決めた。これによって、1885年から1894年日清戦争までの10年間、朝鮮に駐留する外国軍隊はなかった[17][19]。しかし、それによって朝鮮の自立が確保されたわけではなく、甲申政変を武力でつぶした袁世凱は総理交渉通商事宣として漢城にいすわり、朝鮮の内政・外交に宗主権をかかげて介入した[17][19]。また、朝鮮から日清軍が撤退したことは、朝鮮半島進出をねらうロシア帝国をおおいに喜ばせた[19]。メレンドルフは、元来は清国政府の推挙によって朝鮮政府の外交顧問となった人物であるが、こののちロシアに接近し、漢城条約の規定によって謝罪使として日本を訪れた際、駐日ロシア公使館の書記官スペールと会談を重ね、朝鮮がロシアから軍事教官をまねくことに合意した[19]。さらに、金玉均がウラジオストクを訪れた場合は身柄を朝鮮に引き渡すこと、第三国の朝鮮侵攻にはロシア軍が出動すること、朝鮮付近の海域はロシア軍艦が防衛することなどを骨子とする密約を結んだ[19]。これは、閔氏要人が閔妃にはたらきかけて高宗からの黙認をあたえたものであったが、親清派の金允植や閔泳翊ら政府首脳は密約を否決してそれを無効化し、メレンドルフは外務協弁を解任された[19]。朝鮮の政権中枢においては、このように、ロシアの力を利用して清国の支配から脱しようとする動きがみられた[19][25]

閔氏政権は、洋式学校、士官学校汽船による物品の輸送、電報事業など開化政策を続けたものの、財源が関税収入と借款に依存しており、やがて借款の利払いが財政を圧迫して事業縮小や外国人教官への俸給支払いの遅延をまねいたため、開化政策は著しく停頓した[25]。また、閔氏政権の長期化は、官職売買と賄賂の横行をまねき、国内政治は腐敗した[25]。地方官も買官経費の回収や蓄財のため住民から不法な収奪をおこなうことが慢性化し、これに苦しんだ住民は各地で請願活動を起こし、1888年以降は毎年のように民乱がおこるようになった[25]

経済的には、日本への穀物輸出が活発化して農村はそれにより潤ったが、これは同時に米価高騰を引き起こしたため、飯米購買者である下層民の生活を悪化させた[25]。そのため、朝鮮の地方官はしばしば防穀令を発布して米穀の域外流出を禁止した[25]。これは朝鮮農民に前貸しして米を買い集めていた日本人米穀商とのあいだでトラブルに発展した(防穀令事件)[25]

甲申政変のクーデタに加わった人物の多くは長い間不遇の状態にあったが、日清戦争中の1894年12月に組織された第2次金弘集内閣では、日本に亡命していた朴泳孝、アメリカに亡命していた徐光範がそろって入閣して連立政権をつくり、いわゆる「甲午改革」を主導した[26]。また、徐載弼尹致昊1896年4月に『独立新聞』を創立するなど、朝鮮における開化思想・民権思想の大衆化に努めた[26]

清国

袁世凱

駐兵権を失ったものの、緊急時の出兵権を確保した清国は、袁世凱を中心に朝鮮に対する内政干渉をいっそう強化した[19]。1885年4月14日、イギリスは突如朝鮮半島南方沖合にある巨文島を占領した[19]。これはロシア太平洋艦隊インド洋への出動を牽制しての行動だったが、巨文島からも周辺の沿岸一帯からも政府への報告が一切なく、朝鮮政府がこの事実を知りえたのは日本の近藤臨時代理公使の報告を受けてからであった[19]。イギリスは巨文島占拠を朝鮮に通告せず、イギリス駐在清国大使の曽紀澤に伝えた。これは、朝鮮が清国の属国であることをイギリスが認めたことを意味している[19]。この件について近藤からの報告を受けてもほとんど無関心だった朝鮮政府も、李鴻章の説明を聞いてようやく事態の深刻さを知り、イギリスに抗議したもののほとんど相手にされなかった[19]。結局、清国が英露両国にはたらきかけた結果、約2年後の1887年3月、ようやく巨文島からイギリス軍が撤退したのであった[19]

1887年、朝鮮政府は条約締結国に公使を派遣することを決定したが、8月、清国は朝鮮の公使派遣には清国皇帝の許可が必要であると主張し、高宗は使節を清国に派遣して許可をえる手続きをとったが、9月、李鴻章は朝鮮公使が清国公使の下位に立つことを認める3条件に従うよう求めた[25]。また、1890年4月の養母神貞王后の死去に際して、高宗が財政難を理由に弔勅使派遣免除を清に求めたのに対してこれを却下し、高宗がみずから郊外に赴いて勅使を迎える儀礼の免除を求めたのに対してもこれを拒否するなど、いっそう宗主国としての立場に拘泥した[25]

経済面では、朝鮮における清国の勢力を拡張させた[25]。主要都市間に電信線を敷設して管理下におき、上海・仁川間の航路を開いて清国商人を荷主とする貨物輸送の独占をはかった[25]。1884年、中朝商民水陸貿易章程を改訂して内地通商権を獲得し、これにより多くの商人が朝鮮へ渡って内陸部にも居住して通商をおこなうようになった[25]。主な輸出品は英国産綿製品であり、香港、上海などから朝鮮に運ばれた[25]

清国では日本との連携を説く向きもあったが、日本を「弱国」と侮る風潮もはびこり、1886年(明治19年)8月には清国の水兵が長崎に無断上陸のうえ暴行をはたらく長崎事件(長崎清国水兵事件)が起こっている。

日本

親日派のクーデタが失敗し、多くの独立党の人びとが処刑され、あるいは亡命を余儀なくされたことは、朝鮮半島における日本の立場を後退させた。親日派の力によって日本の政治的・経済的影響力を強めていこうとする構想はここで頓挫し、やがて、軍事的に清国を破ることで朝鮮を日本の影響下に置くという構想へと転換していった[15]。朝鮮政府は清国との結びつきをいっそう強めたが、天津条約によって日本がかろうじて緊急時出兵権を得て、相互事前通告の規定を設けたことは10年後の日清戦争の伏線となった[15]

政治面では後退したものの、経済的には朝鮮に対する影響力を拡大していった[25]1885年から1893年にかけて、朝鮮における輸出額の9割以上は日本向けであり、貿易を扱う商船の大半が日本船であった[25]。日本の朝鮮からの主要輸入品は穀物であり、大豆1887年から、1890年以降急増した[25]。この時期、日本の産業革命が進展し、阪神地区の労働者の食糧として米や大豆の需要が急増したためであった[25]。日本もまた1885年に朝鮮の内地通商権を獲得した[25]

日清関係は悪化したとはいえるものの、しかし、のちの日清全面対決に即座につながったわけではなかった[15]。政治・外交レベルでは、この段階で日本が強引に進出した場合、イギリス・ロシアなどがそこに割って入ってくる可能性は十分にあり、現に巨文島事件なども起こっているので、その危険を回避するためにも、日本にとっては朝鮮の独立が維持されることが望ましかったのである[15]。当時の政府当局者のあいだでは、もし日本と清国が干戈を交えることがあれば、それは双方とも列強のえじきになりかねないという認識が主流であり、同様の論説は清国にも存在した[27]。政府内では清国の軍事力は高く評価されており、強硬論はごく少数であった[15]。ただし、壬午軍乱・甲申政変を経たことによって、日本側の不首尾を感じた山縣有朋らは軍備拡張論を強く唱えるようになり、大蔵卿松方正義による緊縮財政のもと、デフレーション不況に苦しむ国民生活のなか、政府はあえて増税を断行し、軍備を拡張した[15]。壬午軍乱後は軍事費予算の増加が図られたが、甲申政変後はとくに軍員の増加が顕著になった[15][27]

脱亜論」を発表した福澤諭吉
大井憲太郎

この政変によってむしろ大きく変わったのは、一般の日本国民の中国を見る目であった[15]。上述したように、日本国内ではマスメディアが清国軍の襲撃と居留民の虐殺を大きく報道したこともあって、「清国討つべし」の声が高まり、各地で義勇兵運動や抗議・追悼集会が開かれた[4][15]。のちに「憲政の神様」と称された尾崎行雄も清国を鋭く批判し、対清強硬論を主張した[15]

朴泳孝・金玉均ら独立党を全面支援してきた福澤諭吉は、この事件で朝鮮・中国に対して深い失望感を覚え、とりわけ開化派人士や幼児等も含むその近親者への残酷な処刑に強い衝撃を受けた[16]。自身が主宰する1885年(明治18年)2月23日2月26日付の『時事新報』に掲載した「朝鮮独立党の処刑」と題する社説では、「権力を握る者が残酷に走るのは敵を許す余裕なき『鄙怯(ひきょう)の挙動』であり、隣国の『野蛮』の惨状は我が源平の時代を再演して余りある」と論評して、その憤りを吐露した[7][16]。そして、3月16日付『時事新報』には「今日の謀を為すに、我国は隣国の開明を待て共に亜細亜を興すの猶予ある可らず、寧ろ其伍を脱して西洋の文明国と進退を共にし、其支那朝鮮に接するの法も、隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず、正に西洋人が之に接するの風に従て処分す可きのみ。悪友を親しむ者は悪名を免かる可らず。我れは心に於て亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり」という、「脱亜論」として知られる社説を掲載した[7][15][20]。これは、ヨーロッパを「文明」、アジアを「未開野蛮」とみて、日本はアジア諸国との連帯を考慮せずに西欧近代文明を積極果敢に摂取し、以後、西洋列強と同様の道を歩むべきだとする主張であり、従来の日・清・朝がともに文明化して欧米列強の侵略を阻止しようという考えからすれば大きな転換であった[7][20]。さらに、8月13日には社説「朝鮮人民のためにその国の滅亡を賀す」を掲載し、「今朝鮮の有様を見るに王室無法、貴族跋扈、税法紊乱して私有の権なし。政府の法律不完全にして無辜の民を殺し、貴族士族の輩が私欲私怨で人を拘置し殺傷すれども訴へるに由なし。栄誉に至りては上下人種を異にし、下民は上流の奴隷に過ぎず。独立国たるの栄誉を尋れば、政府は世界の事情を解せず、いかなる国辱を被るも憂苦の色なく、朝臣らは権力栄華を争ふのみ。支那に属邦視されるも汚辱を感ぜず。英国に土地を奪はれるも憂患を知らず、露国に国を売りても身に利あれば憚らざる如し」と論じて、朝鮮がこのまま王室による専制国家体制にあるよりは、むしろイギリスやロシアなどの「文明国」に支配された方が人民にとって幸福であるという意見を表明するに至った[7][28]。これは、いわば極論というべきものであり、この社説により『時事新報』は「治安妨害」の事由により1週間の発行停止処分となった[28]

このような一連の福澤の言論は、のちの日本の対外思想に少なからず影響をあたえたという指摘がある[7]。しかし実際には、第二次世界大戦後、福澤の朝鮮論の代名詞として扱われがちな「脱亜論」にしても、当時にあっては必ずしも取り立てて注目されるほどの論説ではなかったのであり、事実、政変後の日清協調の時節にあって福澤は「赤心を被て東洋将来の利害を談じ、両国一致して朝鮮を助け(以下略)」との社説も発表している[29][30][注釈 10]

この政変は自由民権運動にも大きな影響をあたえた[15]。1885年1月18日、東京・上野で旧自由党左派の大井憲太郎らは大日本有志運動会と称する対清示威運動を開催し、参加者約3,000名が日本橋の時事新報社前で万歳を叫んだ[16]。この年の12月、大井憲太郎、小林樟雄、磯山清兵衛を中心に景山英子も加わり、朝鮮にわたってクーデタを起こし、清国から独立させて朝鮮の改革を行おうとする大阪事件が起こっている[15]


注釈

  1. ^ 壬午軍乱は1882年7月23日興宣大院君らの煽動を受けて、漢城で起こった閔氏政権および日本に対する大規模な朝鮮人兵士の反乱。日清両国が軍艦・兵士を派遣し、清国軍が大院君を拉致・連行したことで収束した。
  2. ^ 尹致昊は1881年に紳士遊覧団として派遣された魚允中の随行員として日本に渡り、朝鮮初の日本留学生の一人となった人物。外務卿井上馨の斡旋で中村正直同人社に学んだ。
  3. ^ 「郵征局」は郵政関連の中央官庁であり、「中央郵便局」のたぐいではない。
  4. ^ 閔泳翊と洪英植は、1883年7月以降、高宗の派遣した渡米使節団のそれぞれ正使と副使を務めた(徐光範は参事官、随員は兪吉濬ら5名であった)。9月18日アメリカ合衆国大統領チェスター・A・アーサーに謁見したのち閔と洪は別行動をとり、洪英植一行は太平洋航路で10月に帰国、閔泳翊一行は大西洋インド洋航路で12月に帰国した。思想史家の姜在彦は、この別行動を閔と洪のアメリカ視察中の意見の相違が理由ではないかと推測している。そしてもし、閔妃の親戚にあたる閔泳翊が洪英植や徐光範が期待するように独立開化派の考えに共鳴し、その後援者となったならば、平和的な「上からの改革」が可能であり、甲申政変のようなクーデタを必要としなかったかもしれないと論じている。姜(2006)p.238
  5. ^ その惨状は1937年(昭和12年)7月の通州事件に酷似するとの指摘がある。拳骨(2013)
  6. ^ 族誅とは、重罪を犯した者の3親等までの近親者を残忍な方法で処刑すること。
  7. ^ 日本に亡命したのは、金玉均、朴泳孝、徐光範、徐載弼、李圭完、申応煕、柳赫魯、辺燧、鄭蘭教の9名であった。呉(2000)p.135
  8. ^ 全権大臣金弘集の全権委任状に、

    京城不幸有逆党之乱、以致日本公使誤聴其謀、進退失拠、館焚民戕、事起倉猝均非逆料

    という一文がみえる。国立公文書館アジア歴史資料センター「朝鮮事変/5 〔明治18年1月4日から明治18年1月31日〕」レファレンスコード(B03030194800)p.5

  9. ^ 井上馨外務卿には、実は対清交渉用の全権もあたえられていた。太政大臣三条実美によって日清両国軍の朝鮮撤兵交渉を指示する訓告があたえられていたのである。海野(1995)p.69
  10. ^ 杵淵信雄は、福澤はリアリストであり、同時に、何よりも日本の独立自尊を願う点では一貫していたと評している。杵淵(1997)p.137

出典

  1. ^ 甲申政変 こうしんせいへんKotobank
  2. ^ a b c 海野(1995)pp.56-61
  3. ^ a b 呉(2000)pp.56-66
  4. ^ a b c d e f g h i j 牧原(2008)pp.278-286
  5. ^ a b c d e f g h i 呉(2000)pp.66-78
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay 海野(1995)pp.61-67
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  8. ^ a b c d e f g h i j 呉(2000)pp.89-101
  9. ^ a b 佐々木(1992)pp.221-224
  10. ^ a b c d e 糟谷(2000)pp.232-235
  11. ^ a b c d e f g h i j k l m n 水野(2007)pp.162-166
  12. ^ 呉(2000)pp.102-112
  13. ^ a b c d e f g h i j k 呉(2000)pp.112-120
  14. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 呉(2000)pp.121-128
  15. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y 佐々木(1992)pp.224-229
  16. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 杵淵(1997)pp.97-108
  17. ^ a b c d e f g h i 姜(2006)pp.233-236
  18. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 呉(2000)pp.128-143
  19. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 呉(2000)pp.144-159
  20. ^ a b c d e f 杵淵(1997)pp.109-120
  21. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 海野(1995)pp.68-71
  22. ^ 国立公文書館アジア歴史資料センター「朝鮮暴動事件 一/1 〔明治17年12月12日から明治17年12月19日〕」レファレンスコード(B03030193500)朝鮮当局と竹添公使の間で交わされた書簡問答より
  23. ^ a b c 国立公文書館アジア歴史資料センター「朝鮮事変/4 〔明治17年12月26日から明治17年12月31日〕」レファレンスコード(B03030194700)p.19- 竹添公使と督弁交渉通商事務趙秉鎬の会談記録
  24. ^ 中司(2000)pp.162-172
  25. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 糟谷(2000)pp.235-239
  26. ^ a b 姜(2006)pp.247-254
  27. ^ a b 佐々木(1992)pp.302-305
  28. ^ a b 杵淵(1997)pp.121-133
  29. ^ 杵淵(1997)pp.1-3
  30. ^ 杵淵(1997)pp.135-148






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