甲申政変 事後処理

甲申政変

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/10 00:32 UTC 版)

事後処理

甲申政変後、日本政府は朝鮮政府とのあいだに漢城条約を、清国とのあいだに天津条約を締結した。クーデタの挫折によって、日本の朝鮮における立場は以前よりむしろいっそう悪化した。

漢城条約

井上馨
金弘集

竹添公使は、在留邦人と公使館員を仁川の日本人居留地にまで退避させたのち、再び漢城にもどり、朝鮮政府と朝鮮駐留清国軍に対し「在漢城日本居留民への朝鮮民衆と清国軍の暴虐」および「仁川へと退避しようとしていた公使一行が朝鮮人と清国人に攻撃を受けたこと」に対する抗議文を発した[16]

朝鮮側は日本公使がクーデタにおいて、金玉均らの行動に積極的に加担し、6大臣暗殺等にも深く関与していると疑っており、公使が事変時に朝鮮政府への通達なく兵を率いて王宮に入ったことを強く非難した。これに対して竹添公使は、朝鮮国王による「日使来衛」(「日本公使よ、護衛の為に来たれ」)の親筆書と玉璽の押された詔書を示し、自身の行動は保護を求めた国王の要請に基づいた正当な行動であったと主張した[21][22]。朝鮮側からは、重臣殺害の犯人を公使が捕らえているのならば国王護衛者としての資格を認めようと切り返され、日本側が正当性の裏づけとして示した親筆書は独立党一派が偽作したものであり、無効であると非難された[16][23]。しかし、調べによって璽印は真正なものであることが認められた[23]。政府の頭越しに無断で王宮に入ったことは批判されるべきことではあったが、これによって追及は後退した[23][注釈 8]。両者は互いに自身の正当性を主張して譲らず、平行線をたどるばかりだったので、問題の解決は全権大使として派遣された井上馨外務卿の手に委ねられた[21]

日本国内では、公使や日本軍がクーデタに関与した事実は伏せられ、清国軍の襲撃と居留民が惨殺されたことのみが大きく報道されたこともあって、対朝・対清主戦論的な国民世論が醸成されていた[4][15]。政府よりの12月29日付『東京日日新聞』が、朝鮮政府が「今回の事変は全く支那兵の企て」と釈明したうえ竹添公使に謝罪したと報じ、自由党の機関紙『自由新聞』は、「我が日本帝国を代表せる公使館を焚き、残酷にも我が同胞なる居留民を虐殺」した清を許すことはできず、中国全土を武力で「蹂躙」すべしとの論陣を張り、福澤諭吉の『時事新報』も「北京に進軍すべし」と主張した[4][15]。『東京横浜毎日新聞』や『郵便報知新聞』もまた清国の非を論じた[15]。自由党の本拠地高知県では片岡健吉義勇兵団を組織し、日本各地で抗議集会や追悼集会が開かれ、日本陸軍主流や薩摩閥も派兵に向けて動いた[4][15]

しかし、当時の日本の軍事力・経済力では、清国との全面対決は回避すべき無理難題であることは、政府部内において一致する共通認識であった[15]。井上外務卿の一行は12月22日東京を出発し、1884年の暮れに軍艦3隻と2個大隊の陸軍兵を護衛につけて漢城入りした[21]。交渉に参加したのは、日本側が井上全権大使、随員の井上毅参事院議官、朝鮮側が左議政(副首相相当)全権大臣金弘集、督弁統理交渉通商事務衙門趙秉鎬、同協弁メレンドルフらであった[21]

井上全権は、日本政府のクーデタへの関与を否定したうえで、日朝両国関係の速やかな修復が何よりも肝要であるとして、双方の主張の食い違いを全て棚上げにし、「朝鮮国内で日本人が害されたこと」および「日本公使館が焼失したこと」という明白な事実のみを対象に交渉を妥結することを提案した[15][21][24]。金弘集全権は最終的に井上の提案に同意し、1885年(明治18年)1月9日、朝鮮国王の謝罪、日本人死傷者への補償金、日本公使館再建費用の負担などを定めた漢城条約が締結された[15][21]。竹添公使には、罷免に近い「召還」の処分を下すことによって朝鮮政府の要求に応えた[16]。交渉の席中、李鴻章より派遣されて1月1日に漢城入りした清国北洋副大臣の呉大澂は朝鮮の宗主国として日朝交渉を監視し、干渉しようとする場面もあったが、井上・金の両全権は日朝間の問題に清国が容喙することを拒んだ[21]。撤兵問題に関して井上全権は、日清の二国間交渉に場を移すこととした[21][注釈 9]

天津条約 

伊藤博文
李鴻章

甲申政変は日清関係にも重大な緊張状態をもたらした[4][15]。課題は、なおも朝鮮半島で睨み合う日清両軍の撤兵問題と、政変中に在留日本人が清国軍によって加害されたとされる日本商民殺傷事件に関する責任の追及であった[15][21]。日本側は、参議・宮内卿の職にあり、政府最高の実力者である伊藤博文を特命全権大使に任じて北京に派遣した[15]。伊藤には参議・農商務卿の西郷従道が同行し、井上毅・伊東巳代治牧野伸顕ら12名の随員、10名の随行武官をともなう大型使節団が、1885年3月21日に北京入りした[21]。清国側は交渉の席を天津に設けて、全権を北洋通商大臣李鴻章に委ねた[21]

日本側は、朝鮮国王の要請によって王宮内に詰めていた竹添進一郎公使と公使館護衛隊が袁世凱率いる清国漢城駐留軍の攻撃に晒されたことはまったくの遺憾であると主張し、政変の混乱が広がる漢城市街で清国軍人によって在留日本人が多数殺害・略奪されたとして清国を厳しく非難した[21]。そして、そのうえで朝鮮からの日清両国の即時撤兵と、日本商民殺傷事件に関係する清国軍指揮官の処罰を求めた。対して清国側は、朝鮮王宮における戦闘は日本側が戦端を開いたものであると反論し、日本はクーデタを引き起こした独立党勢力に協力した疑いがあるとして、軍を出動させた竹添公使の行動を強く非難し、漢城における日本商民殺傷事件もまた暴徒化した朝鮮の軍民によって引き起こされたものであるとして清国軍の関与を否定した[21]

撤兵問題に関しては、共同撤兵といえば相互対等に聞こえるものの、日本側が公使館警備に限定された一個中隊の暫定的駐屯であるのに対し、清国側は現に漢城を制圧している大軍の駐兵既得権であったことから、事実上、清国の駐兵権の放棄を求めたのに等しかった[21]。これについて、駐清公使の榎本武揚は、将来、緊急時の出兵権を担保するならば最終的に合意が得られるだろうとの見通しを示した[21]。実際には、日清両軍の朝鮮半島からの退去については早々に合意をみたものの、以後の朝鮮半島への両国の軍隊派遣に関しては両者の主張が食い違い、伊藤と李鴻章のあいだの交渉は6回におよんだ[21]

伊藤は第三国の侵攻など特別な場合を除いて、日清ともに出兵するべきではないと主張したのに対し、李は朝鮮が清国軍の派遣を要請すれば清国は宗主国として軍を派遣しないわけにはいかないと反論、壬午軍乱・甲申政変のような内乱であっても出兵はありえると主張した[21]。結局、伊藤の主張する両国の永久撤兵案は退けられたものの、榎本の予想通り、出兵に関する相互通知を取り決めることで合意に達した[21]。日本商民殺傷事件に関する清国軍の関与も清国側は決して認めず、瑣末事であるとして取り合おうともしなかったが、伊藤の執拗な追及に折れて、清国軍内部で再調査を行い事実であれば将官等を処罰するとの照会文を取り交わした[21]。伊藤はかろうじて面目を保ったことになる[21]

こうして1885年明治18年)4月18日、両全権の合意の下で天津条約が締結された[4][17]。条約内容は以下の通り。

  1. 日清両国は朝鮮から即時に撤退を開始し、4箇月以内に撤兵を完了する。
  2. 日清両国は朝鮮に対し、軍事顧問は派遣しない。朝鮮には日清両国以外の外国から一名または数名の軍人を招致する。
  3. 将来朝鮮に出兵する場合は相互通知(「行文知照」)を必要と定める。派兵後は速やかに撤退し、駐留しない。

清国が譲歩した背景としては、清仏戦争がまだ完全に終わっておらず、フランスとの戦闘行為がなおも続いていたことや、日清交渉が長引くことによって日仏が接近することを警戒したイギリス側からの働きかけがあったとみられる[4]


注釈

  1. ^ 壬午軍乱は1882年7月23日興宣大院君らの煽動を受けて、漢城で起こった閔氏政権および日本に対する大規模な朝鮮人兵士の反乱。日清両国が軍艦・兵士を派遣し、清国軍が大院君を拉致・連行したことで収束した。
  2. ^ 尹致昊は1881年に紳士遊覧団として派遣された魚允中の随行員として日本に渡り、朝鮮初の日本留学生の一人となった人物。外務卿井上馨の斡旋で中村正直同人社に学んだ。
  3. ^ 「郵征局」は郵政関連の中央官庁であり、「中央郵便局」のたぐいではない。
  4. ^ 閔泳翊と洪英植は、1883年7月以降、高宗の派遣した渡米使節団のそれぞれ正使と副使を務めた(徐光範は参事官、随員は兪吉濬ら5名であった)。9月18日アメリカ合衆国大統領チェスター・A・アーサーに謁見したのち閔と洪は別行動をとり、洪英植一行は太平洋航路で10月に帰国、閔泳翊一行は大西洋インド洋航路で12月に帰国した。思想史家の姜在彦は、この別行動を閔と洪のアメリカ視察中の意見の相違が理由ではないかと推測している。そしてもし、閔妃の親戚にあたる閔泳翊が洪英植や徐光範が期待するように独立開化派の考えに共鳴し、その後援者となったならば、平和的な「上からの改革」が可能であり、甲申政変のようなクーデタを必要としなかったかもしれないと論じている。姜(2006)p.238
  5. ^ その惨状は1937年(昭和12年)7月の通州事件に酷似するとの指摘がある。拳骨(2013)
  6. ^ 族誅とは、重罪を犯した者の3親等までの近親者を残忍な方法で処刑すること。
  7. ^ 日本に亡命したのは、金玉均、朴泳孝、徐光範、徐載弼、李圭完、申応煕、柳赫魯、辺燧、鄭蘭教の9名であった。呉(2000)p.135
  8. ^ 全権大臣金弘集の全権委任状に、

    京城不幸有逆党之乱、以致日本公使誤聴其謀、進退失拠、館焚民戕、事起倉猝均非逆料

    という一文がみえる。国立公文書館アジア歴史資料センター「朝鮮事変/5 〔明治18年1月4日から明治18年1月31日〕」レファレンスコード(B03030194800)p.5

  9. ^ 井上馨外務卿には、実は対清交渉用の全権もあたえられていた。太政大臣三条実美によって日清両国軍の朝鮮撤兵交渉を指示する訓告があたえられていたのである。海野(1995)p.69
  10. ^ 杵淵信雄は、福澤はリアリストであり、同時に、何よりも日本の独立自尊を願う点では一貫していたと評している。杵淵(1997)p.137

出典

  1. ^ 甲申政変 こうしんせいへんKotobank
  2. ^ a b c 海野(1995)pp.56-61
  3. ^ a b 呉(2000)pp.56-66
  4. ^ a b c d e f g h i j 牧原(2008)pp.278-286
  5. ^ a b c d e f g h i 呉(2000)pp.66-78
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay 海野(1995)pp.61-67
  7. ^ a b c d e f 海野(1992)pp.20-22
  8. ^ a b c d e f g h i j 呉(2000)pp.89-101
  9. ^ a b 佐々木(1992)pp.221-224
  10. ^ a b c d e 糟谷(2000)pp.232-235
  11. ^ a b c d e f g h i j k l m n 水野(2007)pp.162-166
  12. ^ 呉(2000)pp.102-112
  13. ^ a b c d e f g h i j k 呉(2000)pp.112-120
  14. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 呉(2000)pp.121-128
  15. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y 佐々木(1992)pp.224-229
  16. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 杵淵(1997)pp.97-108
  17. ^ a b c d e f g h i 姜(2006)pp.233-236
  18. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 呉(2000)pp.128-143
  19. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 呉(2000)pp.144-159
  20. ^ a b c d e f 杵淵(1997)pp.109-120
  21. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 海野(1995)pp.68-71
  22. ^ 国立公文書館アジア歴史資料センター「朝鮮暴動事件 一/1 〔明治17年12月12日から明治17年12月19日〕」レファレンスコード(B03030193500)朝鮮当局と竹添公使の間で交わされた書簡問答より
  23. ^ a b c 国立公文書館アジア歴史資料センター「朝鮮事変/4 〔明治17年12月26日から明治17年12月31日〕」レファレンスコード(B03030194700)p.19- 竹添公使と督弁交渉通商事務趙秉鎬の会談記録
  24. ^ 中司(2000)pp.162-172
  25. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 糟谷(2000)pp.235-239
  26. ^ a b 姜(2006)pp.247-254
  27. ^ a b 佐々木(1992)pp.302-305
  28. ^ a b 杵淵(1997)pp.121-133
  29. ^ 杵淵(1997)pp.1-3
  30. ^ 杵淵(1997)pp.135-148






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