甲申政変
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三日天下
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開化派のクーデタに対し、閔氏側の右議政沈舜沢は清国軍の出動と国王・閔妃の救出を要請した[10][14]。清国軍は当初出動をひかえていたが、これは、高宗が日本公使の保護を命じていたことと、日清両軍の衝突による混乱を避けるためであった[6]。しかし、事態の進展はそれを許さず、清国軍を統括していた呉兆有が袁世凱らと協議した結果、12月6日、兵を率いて昌徳宮に入ることを決めた[6]。袁世凱は国王への拝謁を求めたが、金玉均は袁世凱の拝謁は当然ながら許されるが兵を率いて入ることは許されないと応答した[18]。午後2時すぎ、呉兆有が500名を率いて宣仁門から、袁世凱が800名を率いて敦化門から攻撃を開始し、午後3時ころから日清間で銃撃戦が始まった[6][16][18]。このとき、袁世凱は攻撃目標は日本兵ではなく、あくまでも反乱者たちであるという名目を立てている[18]。王宮護衛の職にあった朝鮮政府軍兵士400名は経験も浅く、武器も不十分であったため、宣仁門を守っていた兵士は一斉に逃亡、他の場所でも至る所でくずれ、清国軍に合流する者もあらわれた[6][16][18]。結果として日本軍150名だけで清国兵1,300名と戦わざるをえなかった[18]。しかし、日本兵は奮戦し、日本側の犠牲者は死者1名、負傷者4名であったのに対し、清国軍の戦死者は53名を数えた[18]。多くの清国兵士は気勢をあげて威嚇するのみで、交戦を避けて王宮各所に放火、略奪行為に走った[18]。
とはいえ、広大な昌徳宮を防衛するにはあまりにも少数の日本軍は王宮の一隅に追い込まれた[6]。村上中隊長は、数では清国軍に劣るものの戦闘では決して不利とはいえず、必ず撃退することを竹添公使に約束したが、竹添はそれを聞き入れなかった[18]。包囲の環がせばめられ、国王と王妃は逃げまどい、ついに竹添は日本軍撤収を命じた[6][11][18]。国王を奉じて仁川に避難するという金玉均らの申し出は国王によって拒否された[6][16][18]。竹添公使と日本軍は昌徳宮の裏門から脱出して午後7時30分ころに漢城の校洞にある日本公使館に戻った[6][18]。朴泳孝・金玉均ら9名も行動をともにしたが、洪英植や朴泳教は国王にしたがって王宮に残り、のちに清国兵に殺害された[6][18]。
清国軍は、12月7日から10日まで高宗を陣営内に確保し、その間高宗に教書を発布させ、臨時政権を樹立させた[18]。4日から6日にかけての宮廷記録を書き改めさせ、高官らに金玉均らを弾劾すべしとの上疏をさせた[18]。新閣僚には、左議政の金弘集を筆頭に、金允植、金晩植、魚允中らが入り、右営使に閔泳翊、外務協弁にメレンドルフが名を連ねた[18]。
竹添の公使館帰着前から漢城は大混乱に陥った[6][16]。鐘路付近の商店のほとんどが清国兵や朝鮮人暴徒によって破壊・掠奪され、日本人家屋からの略奪行為が相次いだ[19]。まとまって避難していた日本人集団が各地で襲撃され、婦女子がいたるところで暴行された[19]。旅行中の日本軍大尉1名や日本公使館に逃げ込まなかった居留民29名は暴徒化した軍民によって殺害された[6][16][注釈 5]。竹添もまた居留民保護の務めを充分に負ったとはいえない[6]。公使館には在留邦人避難者も含めて260人が押し寄せており、籠城するにも食糧が足りなかった[16]。
結局、竹添は7日午後、この年の7月に新築落成なったばかりの日本公使館に火を放って全員退去を命じ、西大門を抜けて麻浦から漢江をくだって仁川府に向かった[6]。竹添一行が仁川領事館に着いたのは翌8日の朝であった[6][16]。彼らは停泊中の千歳丸に収容され、長崎へと向かうこととなったが、竹添はクーデタと自分のかかわりが明らかになることを怖れ、朴泳孝・金玉均らの同行を露骨に嫌がった[6][18]。そこに外務協弁のメレンドルフが船内の捜索にかけつけた[18]。「これは国際問題だ」と脅しをかけるメレンドルフに対し、竹添公使はやむなく捜索を承諾したが、千歳丸の船長辻覚三郎がここで義侠心を発揮し、朴・金らを船底に隠し、自分がこの船の責任者であり、勝手に立ち入ることは誰でも許さないと強硬に主張してメレンドルフを引き下がらせ、金らはようやくひそかに同行できたのであった[6][18][20]。
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朝鮮では親清派が臨時政権を樹立したが、独立党の人士や朴・金ら亡命者たちの家族も数多く朝鮮に残った。彼らは殺害されたり、禁固刑となったり、あるいは自殺するなど、ほとんどが悲惨な結末をたどった[18][20]。徐光範と徐載弼の父母妻子は絞殺に処せられ、金玉均の養父は国王の配慮で養子縁組が解除されたものの、実父は捕らえられ、金玉均と一緒に処刑するため獄につながれた[18][20]。政変に参加した独立党員の身内には「族誅」が適用され、従者や幼い子どもも含めむ家族が残忍な方法で処刑された[20][注釈 6]。
クーデタの失敗によって死を免れた金玉均、朴泳孝ら9名は日本に亡命し、そのうちの徐光範、徐載弼らはアメリカに渡った[17][注釈 7]。亡命した金玉均は小笠原諸島の父島や札幌など日本各地を転々としたが、日本政府からは冷遇されて再起計画に絶望し、ついには清国の北洋大臣李鴻章を説得するため、1894年(明治27年)3月、上海に渡った[11][17]。しかし、3月28日、44歳の金玉均は、同地において朝鮮国王の放った刺客洪鐘宇によって暗殺された[6][17]。その遺体は朝鮮半島に移送された後に凌遅刑に処せられ、五体を引き裂かれたのち朝鮮各地に分割して晒された。金の妻と子は、甲申政変の失敗から10年間生死不明で行方知らずとなったのち、1894年(明治27年)12月忠清道沃川の近傍で当時東学党の乱(甲午農民戦争)鎮圧の任にあたっていた日本軍によって偶然発見され、保護された。そのときの2人は実に憐れむべき姿だったという。
政変は失敗に帰したものの、このできごとは近代国家の樹立をめざした民族運動のさきがけとしての歴史的意義を有する[11]。問題は、それが朝鮮民衆の支持を欠いており、もっぱら外国勢力(日本)の力を借りようとしたことであり、その意味で、それが最終的に外国勢力(清国)の介入によって失敗に終わったのも無理からぬところがあった[11]。結局のところ、新政権を守るための防衛対策を怠ったことがクーデタ挫折の原因だったのである[17]。
注釈
- ^ 壬午軍乱は1882年7月23日、興宣大院君らの煽動を受けて、漢城で起こった閔氏政権および日本に対する大規模な朝鮮人兵士の反乱。日清両国が軍艦・兵士を派遣し、清国軍が大院君を拉致・連行したことで収束した。
- ^ 尹致昊は1881年に紳士遊覧団として派遣された魚允中の随行員として日本に渡り、朝鮮初の日本留学生の一人となった人物。外務卿井上馨の斡旋で中村正直の同人社に学んだ。
- ^ 「郵征局」は郵政関連の中央官庁であり、「中央郵便局」のたぐいではない。
- ^ 閔泳翊と洪英植は、1883年7月以降、高宗の派遣した渡米使節団のそれぞれ正使と副使を務めた(徐光範は参事官、随員は兪吉濬ら5名であった)。9月18日にアメリカ合衆国大統領チェスター・A・アーサーに謁見したのち閔と洪は別行動をとり、洪英植一行は太平洋航路で10月に帰国、閔泳翊一行は大西洋・インド洋航路で12月に帰国した。思想史家の姜在彦は、この別行動を閔と洪のアメリカ視察中の意見の相違が理由ではないかと推測している。そしてもし、閔妃の親戚にあたる閔泳翊が洪英植や徐光範が期待するように独立開化派の考えに共鳴し、その後援者となったならば、平和的な「上からの改革」が可能であり、甲申政変のようなクーデタを必要としなかったかもしれないと論じている。姜(2006)p.238
- ^ その惨状は1937年(昭和12年)7月の通州事件に酷似するとの指摘がある。拳骨(2013)
- ^ 族誅とは、重罪を犯した者の3親等までの近親者を残忍な方法で処刑すること。
- ^ 日本に亡命したのは、金玉均、朴泳孝、徐光範、徐載弼、李圭完、申応煕、柳赫魯、辺燧、鄭蘭教の9名であった。呉(2000)p.135
- ^ 全権大臣金弘集の全権委任状に、
京城不幸有逆党之乱、以致日本公使誤聴其謀、進退失拠、館焚民戕、事起倉猝均非逆料
という一文がみえる。国立公文書館アジア歴史資料センター「朝鮮事変/5 〔明治18年1月4日から明治18年1月31日〕」レファレンスコード(B03030194800)p.5
- ^ 井上馨外務卿には、実は対清交渉用の全権もあたえられていた。太政大臣三条実美によって日清両国軍の朝鮮撤兵交渉を指示する訓告があたえられていたのである。海野(1995)p.69
- ^ 杵淵信雄は、福澤はリアリストであり、同時に、何よりも日本の独立自尊を願う点では一貫していたと評している。杵淵(1997)p.137
出典
- ^ 甲申政変 こうしんせいへんKotobank
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- ^ 国立公文書館アジア歴史資料センター「朝鮮暴動事件 一/1 〔明治17年12月12日から明治17年12月19日〕」レファレンスコード(B03030193500)朝鮮当局と竹添公使の間で交わされた書簡問答より
- ^ a b c 国立公文書館アジア歴史資料センター「朝鮮事変/4 〔明治17年12月26日から明治17年12月31日〕」レファレンスコード(B03030194700)p.19- 竹添公使と督弁交渉通商事務趙秉鎬の会談記録
- ^ 中司(2000)pp.162-172
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- ^ a b 杵淵(1997)pp.121-133
- ^ 杵淵(1997)pp.1-3
- ^ 杵淵(1997)pp.135-148
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