甲相同盟の復活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/10 14:29 UTC 版)
元亀2年(1571年)、甲相同盟が復活した。 信玄は永禄12年(1569年)に第二次駿河出兵を行い駿河を制圧し、三河・遠江を巡り織田・徳川と勢力の対立が顕在化していた。一方の北条氏では北関東における越相同盟が軍事同盟として十分に機能しておらず、氏康が死去し子の氏政が当主となると武田との和睦を志向する。元亀2年(1571年)には甲相同盟は復活しているが、交渉は秘密裏に行われその経緯は文書の上からは見られず、江戸時代初期に成立した武田方の軍記物である『甲陽軍鑑』では和睦は北条方から持ちかけられ、北条方の軍記物である『関八州古戦録』によれば武田方から持ちかけられたものであるとしている。 再締結された甲相同盟により駿河や武蔵・西上野での甲相対決は解消され、北条氏は再び北関東において謙信と対決することになり、相互に軍事同盟として機能している。武田氏は信玄晩年に行われた西上作戦により織田・徳川との抗争が激化し、勝頼期には天正3年(1575年)の長篠の戦いにおける織田・徳川連合軍への大敗を契機に領国維持が困難となる。勝頼は甲相同盟を強化するため氏政の妹(桂林院殿)を正室に迎え、信長と敵対していた将軍義昭の主導する「甲相越一和」に応じ、上杉や安芸の毛利氏、本願寺勢力との信長包囲網に応じて信長勢力と対抗した。
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