甲相同盟の再破綻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/10 14:29 UTC 版)
天正7年(1579年)、武田勝頼が上杉景勝方となった為、甲相同盟が再度破綻した。 天正6年(1578年)に越後では謙信が死去し、その後継を巡って養子の2人上杉景虎(北条氏康の七男)と上杉景勝が対立し、御館の乱に発展する。景勝は謙信の甥で、景虎は越相同盟の際に謙信の養子となった氏康の子で、氏政の庶弟である。氏政は、自身は緊迫していた関東情勢を睨んで動けない状況にあったため、甲相同盟に基づいて勝頼に景虎支援のため越後出兵を依頼した。勝頼は越後へ出兵した当初は調停を試みるが、景勝側との接触で外交方針を転換し甲越同盟を結ぶ。以後、乱は翌天正7年(1579年)に上杉景勝が制し、景虎は自殺している。 甲越同盟の成立により甲相同盟は再び破綻し、勝頼による西上野における沼田領への侵攻などで甲相は対決し、氏政は徳川家康と同盟し駿河の武田領国を侵している。甲相同盟の破綻により勝頼の領国維持はさらに困難になった。
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