甲申政変 クーデター計画

甲申政変

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/10 00:32 UTC 版)

クーデター計画

1883年6月、金玉均は自身にとって3回目の日本訪問の途についた。前回の訪日で会見した日本政府の高官は、朝鮮国王の委任状があれば借款に応ずることを示唆しており、朝鮮からの留学生尹致昊の帰国に際しても大蔵大輔の吉田清成はかさねてそのことを金玉均に伝言していた[6][注釈 2]

しかし、高宗からあたえられた300万円の国債借り入れの委任状を持参して来日した金玉均に対する日本政府の対応は冷たかった[6]。300万円は当時の朝鮮における国家財政1年分に相当しており、日本の予算約5,000万円からしても巨額なものであった[6][8]。メレンドルフの妨害工作もあったが、日本政府としても大蔵卿松方正義緊縮財政を進めているなか、財政力に乏しく政情も不安定な朝鮮に対し、そのような巨額な投資をおこなうべき理由は乏しかった[6][11]。金玉均は、日本についで、フランスアメリカ合衆国からの借款工作にも失敗した[6]

1884年5月、金玉均は失意のうちに朝鮮に帰国した。朝鮮では、以前にもまして大国清の勢力が猛威をふるい、朝鮮国の重臣たちはそれに追随し、開化派の活動はいっそうせばめられていた[6]。清とフランスの緊張関係の高まりから、5月に遼東半島に移駐することとなった呉長慶にかわって野心家の袁世凱が実権を掌握し、朝鮮王宮は彼の挙動に左右された[6]。これに危機感を覚えた金玉均らは国王高宗を動かそうと計画した[8][11]。高宗もまた閔氏の専横に心を痛め、朝鮮の将来に不安をいだいていたのである[8]

清仏戦争の直接原因となった1884年6月23日のバクレ伏兵事件英語版

1884年8月5日、ベトナム領有を意図するフランスとベトナムでの宗主権を護持しようとする清国との間で清仏戦争が勃発した[11]。清越国境付近のバクレでの両軍衝突が引き金となったが、この戦いで劣勢に立った清国は朝鮮駐留軍の半数に相当する約1,500名を内地に移駐させた[6]。独立党は、これを好機ととらえた[11]。日本もまた、壬午軍乱以降、無為にすごした失地回復の好機とみて清国勢力の後退を歓迎した[6]。井上馨外務卿は帰国中の弁理公使竹添進一郎に訓令し、10月に漢城に帰任させた。竹添は軍乱賠償金残金の寄付を国王に持ち掛ける一方、金玉均ら独立党に近づいた[6][12]

竹添進一郎

金玉均らは11月4日、朴泳孝邸宅に日本公使館の島村久書記官を招いて密談をおこなった。集まったのは、金玉均、朴泳孝、洪英植、徐光範、島村の5名であった[13]。そこで金玉均は島村にクーデタ計画を打ち明けているが、島村はそれに驚きもせず、むしろ速やかな決行を勧めるほどであったという[13]。かれら独立党は3つのクーデタ計画案を検討し、同年12月に開催が予定されていた「郵征局」の開庁祝賀パーティーに乗じて実行にうつす案が採用された[13][注釈 3]。金玉均は11月7日に日本公使館をおとずれ、竹添公使にクーデタ計画を打ち明け、そのとき竹添から支援の約束を得ている[13]

金玉均は漢城駐在のイギリスアメリカ合衆国の外交官にもクーデタ計画を相談した[13]。かれらは、金玉均のえがく理想に共感し、清国よりも日本を頼るべきことについても理解を示したが、しかし、決行については清国の軍事的優位を認めて、これに反対した[13]。金玉均はさらに、それとなく高宗にも計画の内容を伝えて伺いを立てた[13]。高宗もまた、清の軍事力を考えると不成功に終わるのではないかとの懸念を伝えたが、金玉均はこれに食い下がり、フランスと連動して動けば充分に勝機はあると訴えた[13]。高宗は、これを諒とした[13]

しかし、クーデタに動員できる軍事力といえば、日本公使館警備の日本陸軍仙台鎮台歩兵第4連隊第1大隊第1中隊の150名と、陸軍戸山学校に留学して帰国した10数名の朝鮮人士官学生および新式軍隊の一部にすぎなかった[6]。この人数では、半減したとはいえ、なお1,500名を有する清国兵および袁世凱指揮下の朝鮮政府軍に対抗するのは無謀といってよかった[6]


注釈

  1. ^ 壬午軍乱は1882年7月23日興宣大院君らの煽動を受けて、漢城で起こった閔氏政権および日本に対する大規模な朝鮮人兵士の反乱。日清両国が軍艦・兵士を派遣し、清国軍が大院君を拉致・連行したことで収束した。
  2. ^ 尹致昊は1881年に紳士遊覧団として派遣された魚允中の随行員として日本に渡り、朝鮮初の日本留学生の一人となった人物。外務卿井上馨の斡旋で中村正直同人社に学んだ。
  3. ^ 「郵征局」は郵政関連の中央官庁であり、「中央郵便局」のたぐいではない。
  4. ^ 閔泳翊と洪英植は、1883年7月以降、高宗の派遣した渡米使節団のそれぞれ正使と副使を務めた(徐光範は参事官、随員は兪吉濬ら5名であった)。9月18日アメリカ合衆国大統領チェスター・A・アーサーに謁見したのち閔と洪は別行動をとり、洪英植一行は太平洋航路で10月に帰国、閔泳翊一行は大西洋インド洋航路で12月に帰国した。思想史家の姜在彦は、この別行動を閔と洪のアメリカ視察中の意見の相違が理由ではないかと推測している。そしてもし、閔妃の親戚にあたる閔泳翊が洪英植や徐光範が期待するように独立開化派の考えに共鳴し、その後援者となったならば、平和的な「上からの改革」が可能であり、甲申政変のようなクーデタを必要としなかったかもしれないと論じている。姜(2006)p.238
  5. ^ その惨状は1937年(昭和12年)7月の通州事件に酷似するとの指摘がある。拳骨(2013)
  6. ^ 族誅とは、重罪を犯した者の3親等までの近親者を残忍な方法で処刑すること。
  7. ^ 日本に亡命したのは、金玉均、朴泳孝、徐光範、徐載弼、李圭完、申応煕、柳赫魯、辺燧、鄭蘭教の9名であった。呉(2000)p.135
  8. ^ 全権大臣金弘集の全権委任状に、

    京城不幸有逆党之乱、以致日本公使誤聴其謀、進退失拠、館焚民戕、事起倉猝均非逆料

    という一文がみえる。国立公文書館アジア歴史資料センター「朝鮮事変/5 〔明治18年1月4日から明治18年1月31日〕」レファレンスコード(B03030194800)p.5

  9. ^ 井上馨外務卿には、実は対清交渉用の全権もあたえられていた。太政大臣三条実美によって日清両国軍の朝鮮撤兵交渉を指示する訓告があたえられていたのである。海野(1995)p.69
  10. ^ 杵淵信雄は、福澤はリアリストであり、同時に、何よりも日本の独立自尊を願う点では一貫していたと評している。杵淵(1997)p.137

出典

  1. ^ 甲申政変 こうしんせいへんKotobank
  2. ^ a b c 海野(1995)pp.56-61
  3. ^ a b 呉(2000)pp.56-66
  4. ^ a b c d e f g h i j 牧原(2008)pp.278-286
  5. ^ a b c d e f g h i 呉(2000)pp.66-78
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay 海野(1995)pp.61-67
  7. ^ a b c d e f 海野(1992)pp.20-22
  8. ^ a b c d e f g h i j 呉(2000)pp.89-101
  9. ^ a b 佐々木(1992)pp.221-224
  10. ^ a b c d e 糟谷(2000)pp.232-235
  11. ^ a b c d e f g h i j k l m n 水野(2007)pp.162-166
  12. ^ 呉(2000)pp.102-112
  13. ^ a b c d e f g h i j k 呉(2000)pp.112-120
  14. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 呉(2000)pp.121-128
  15. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y 佐々木(1992)pp.224-229
  16. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 杵淵(1997)pp.97-108
  17. ^ a b c d e f g h i 姜(2006)pp.233-236
  18. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 呉(2000)pp.128-143
  19. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 呉(2000)pp.144-159
  20. ^ a b c d e f 杵淵(1997)pp.109-120
  21. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 海野(1995)pp.68-71
  22. ^ 国立公文書館アジア歴史資料センター「朝鮮暴動事件 一/1 〔明治17年12月12日から明治17年12月19日〕」レファレンスコード(B03030193500)朝鮮当局と竹添公使の間で交わされた書簡問答より
  23. ^ a b c 国立公文書館アジア歴史資料センター「朝鮮事変/4 〔明治17年12月26日から明治17年12月31日〕」レファレンスコード(B03030194700)p.19- 竹添公使と督弁交渉通商事務趙秉鎬の会談記録
  24. ^ 中司(2000)pp.162-172
  25. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 糟谷(2000)pp.235-239
  26. ^ a b 姜(2006)pp.247-254
  27. ^ a b 佐々木(1992)pp.302-305
  28. ^ a b 杵淵(1997)pp.121-133
  29. ^ 杵淵(1997)pp.1-3
  30. ^ 杵淵(1997)pp.135-148






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